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第56話 愛に生きる男
とは言ったものの。
「………………」
まるで映画のように颯爽と登場……とか、ちょっと思ってみたものの。
それってとても大それた事……だ。
今日は雨降りにはならなかった。
でも、一日中分厚い曇に覆われた日本列島。その分厚い雲を突き破ってしまいそうなほど高く、とっても高くそびえ立つ、成徳さんが今、まさにいるであろうホテルの、その足元に立ちながら見上げた。
僕、今からとてもすごいことをするんじゃないでしょうか。
これ、大変なこと、なのではないでしょうか。
だって、僕が心から尊敬している先生の、そのご友人の御息女からお見合い相手をさらってしまうんだ。
お見合いをぶち壊してしまうわけで。
先生にもご迷惑をかけるだろうし。
あぁ、そうだ。辞表、書いてくればよかったかもしれない。
そしたら先生にかかる迷惑が少しは減るかもしれない。
いや、僕の辞職一つで拭えるものはたいしてないでしょう。
すみません。先生。
今、大事な案件を抱えてる最中で、そんな無責任な辞職は、それはそれで先生のご迷惑になるし。
というか、どう言って成徳さんをさらおう。
もちろんカッコよく、まるでヒーローのようになんてさらえない。
そもそもさらうのだから、僕は悪役だ。
大好きな人の輝かしい未来を守ってあげない悪徳秘書。自分の私利私欲のために、大変なことをしようとしている極悪非道秘書。
大悪党秘書。
うーん……それこそ、一から誠心誠意お話しして、こうしてこうで、こう思ったけれど、やっぱり諦めきれないのですって打ち明ける……しか……。
「……」
ないかも、しれない……って、思いながら、とにかく成徳さんのところへ向かおうとして。
顔を――。
「ホテルのエントランスでそんな困った顔してると迷子なのかと思われるぞー」
顔を、上げた。
「佳祐」
そしたら、成徳さんがホテルから出て、きた。
「ずっと無視されてたけど」
一人で、出てきた。
「よかった」
スーツをビシッと着こなして。
「俺のこと、見合いからさらおうとしてくれてた?」
クスッと小さく笑みを零す成徳さんの首には僕が……プレゼントしたネクタイが。
「俺を見て泣くくらいなら、手放そうとしないでくれる?」
「っ」
僕が、差し上げたネクタイをお見合いにしてきてくれた。それだけで、今日、ここへ成徳さんが足を運んだのがお見合いをするためじゃなくて、お断りするためで、そして今、お断りしてきてくれたんだってわかって。
「ったく……言いたいことたくさんあるんだけど?」
「ず、ずび……ずびばぜんっ」
見た瞬間に涙が溢れた。
「とりあえず、ありがたーい縁談話は断った」
「っ」
「これ、すっごいエリート街道が待ってただろうなぁ」
「っ、はいっ」
やっぱり、すごく似合ってる。
「でも、まぁ……俺は案外ロマンチストだから」
やっぱりすごくかっこいい。
「愛に生きる男なんで」
「はい……」
やっぱり、貴方のことがとても大好き。
「そんで、ずううううっと俺のことを無視してる恋人から土日かけてゆっくり、どういうつもりなのか訊かないと。って今迎えに行くところだったからちょうどいい」
「っ、ずびばっ」
「うちに……はちょっと無理だから」
「え?」
そうなんですか? 何かご自宅では不都合なことでも?
「あの、どうかし、」
どうかしたんですか? 何か、ご自宅でトラブルでも?
「ほっっっっっっ」
息って、そんなに長く止められるんだ。
「っっっっんとうに、仕事が忙しかったんだよ。だから掃除もできてない」
「……」
「さすがに、あの有様の部屋には呼べない」
「……」
「けど、ここだとお相手のご令嬢に出会しそうだから、とりあえず」
「……っぷ」
笑いながら顔がくしゃっとなってしまった瞬間、零れ落ちずに止まっていた涙の雫がポロポロと頬を転がっていった。
「はぁ? 何、笑ってんの。泣いて笑って」
「じゃあ、僕の部屋はどうでしょうか。
ひとつ深呼吸して。
「僕は、どんな成徳さんも大好きです」
「……」
「大好きです」
スーツ姿がとてもカッコよくて、僕の差し上げたネクタイをビシッと決めて、見惚れてしまうくらいに素敵なところも。
お部屋がたくさん、例えば足の踏み場もないくらいに散らかっていても。
どんなに周りに意地悪な人だと言われても。
優しくて、ハンサムで、温かくて、無邪気なところもあって、お仕事に真摯に向き合う成徳さんのことがとても、とっても。
「大好きですっ」
「……ったく」
溜め息をつきながら笑ってくれた。そして、その大きな手で僕の頭をぽんって撫でて。
「それが聞けて……よかったよ」
そう小さく、小さく、とっても小さく、また溜め息混じりに呟いてくれた。
「泣かれると困る」
僕の名前を呼ぶ声もその表情も優しい。
それが、たまらなく嬉しい。
「佳祐」
成徳さんの頭に青空があった。雨がたくさん降って、今日はようやくその雨が止んで、でも、分厚い、灰色の、今にも雨粒をまた落としてきそうな雲がずっと空を覆っていたはずなのに。気がついたら、青空が、ほら、成徳さんの肩越しにうっすらと見えた。
僕はその青空が眩しくて、また、瞬きしながら。
ただ、ただ、成徳さんが好きですって、ここ数日我慢していた分も合わせて、何回も、何回も胸の内で告白していた。
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