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成徳視点 4 わかりにくくてわかりやすい
「はぁぁ?」
その大きな大きな溜め息、というよりも「苦情」「クレーム」を溜め息という形に変換しているそれに、隣のデスクに座る今年の新人が息を詰めたのが気配でわかる。
威圧するつもりはなかったが、でも、思わず出たんだ。申し訳ないが、勝手に出た。
でも、出るだろ。
「ちょっと、それどうにかならないわけ?」
今度は隣のデスクの新人がその声にホッとしたのが気配でわかった。
そして、俺の目の前には――。
「なんで、私が睨まれるわけ?」
同僚が高いヒールで仁王立ちしながら腕を組んで立っている。
「……睨みたくもなる」
「……まぁね」
今日で仕事納め。
「でも仕方ないじゃない? インフルなんだから」
「健康管理もできてない奴が人を管理する側にまわること自体、ないだろ」
「だから、このインフルだ、風邪だなんだって、世間でバタバタ体調不良者が続出している中で、ちゃんと仕事してる者が選ばれたんでしょ?」
「……」
今日で、阿呆は仕事納め。
「だから、私を睨まないでよ」
だが、阿呆ではない俺は仕事が納められなかった。
官庁の電気設備の更新工事が年末年始にはある。全てのフロア、一層、一層でいくつその電気設備があるのか、今までは知らなかったが、ワンフロアだけで数十台。それを一斉に交換することはかなり難しく、また官庁が休官中でなければいけないこと、電力を止める都合上、夜間に行うこと、などを踏まえ、この更新工事はいつも、この年末年始に行われていた。
いや、行われていたのは知っていた。
だが、去年までは上司どもがその責任者をやっていて、俺たちは普通に冬期休暇に入っていた。
そして今年の更新工事責任者は別の者が指名されていた。
ただ、その別の者が阿呆で、忘年会でもらってきたのかインフルエンザに罹り、更新工事の責任者役を担えなくなり、毎日しっかり感染予防をしていた俺が指名をされた。
「まぁ、気の毒だけど」
「じゃあ、代われ」
それはお断りするわ、と赤い唇の端をキュッと持ち上げて笑っている。
「頑張りすぎたのね」
「うるさい」
「前はもう少し上手く立ち回りながらポイント稼いでたのに」
「知らん」
「あ、でも、前の河野だったら、これ、率先してやってたか。こういうの」
「知らん!」
確かに、今までなら、もっと上手にやっていた。
この担当も喜んで引き受けていた。電気工事の間、ただここにいて、ぼーっとしながら時間だけやり過ごして、あとは工事時間帯以外のセキュリティーをオンにするだけ。それをたったの三日間立ち会うだけでいいんだ。それでポイント稼げればラッキーだろう。どうせ年越しだと誰かと騒ぐわけじゃない。むしろそっちの方がごめんだ。一人でできて、尚且つポイントだけ稼げればいうことなし。
「でも、彼には嘘、ついちゃった」
「?」
「年末年始はしっかり休むって」
「……あぁ」
「……やっぱり私、立ち会い、代わってあげてもいいけど?」
「……」
「そんな睨まないでよ。これはこれでいいポイント稼ぎだと思うもの。しかも女性だし」
「アホか」
はぁと、大きく溜め息をまた一つ溢した。
「俺が受けた仕事だ。インフルに俺も罹りましたなんて、ダサい仮病でも使うのか?」
「……」
確かに優秀だし、女性だからとひけらかすこともなく対等に仕事をこなしてきた。だが、そこは男女平等でもなんでもないだろ。工事関係者はほぼ男性、深夜から明け方まで、官内はほぼ人がいないんだ。これはそんな平等よりも優先されるべきだと俺は思う、性別の尊厳ってやつだ。
「……っぷ」
「なんだよ」
「いえ、もう少し、そういうところを上手に出せば、河野ってもう少しモテたのに。わかりにくいのよ」
「何がだよ」
「優しさが」
「はぁ? お前がその単語使うと怖いぞ」
失礼ねと露骨に顔に出すから、逆にこっちからしてみたら、そっちが失礼な奴だからなと怖い顔をして見せると、更に面白かったのか、今度は楽しそうな顔をしている。ほら、お前が俺の不機嫌なんて完全無視してるから、隣のデスクの新人は戦々恐々だ。
「まぁ、でも今はモテる必要ないものね」
「今も昔もそんな必要ないぞ」
「はいはい。じゃあ、良いお年を」
「おい、お前」
「それ」
嫌味にならない上品な色合いのネイルで整えられた指先が、鼻先に突き刺さるかと思った。
「お前、呼ばわりしないでよね」
モテたいと思ったことなんてない。
「良いお年を。あ、これはもう言ってあるから。それから、来年も宜しくって、言っておいて」
「……言ってあるとか、言っておいて、とか、俺は伝書鳩か」
「ぷ」
そう小さく、思わず吹き出した笑い声をかき消すかのように、隣のデスクの新人はものすごい勢いで、まるでどこかの国のセキュリティーでもハッキングしようとしているかのように、思い切りキーボードを叩き始めた。聞こえておりませんといいたそうに。
「……はぁ」
モテたいなんて思ったこと、一度だってない。
貴方は、なんて知ったふりをされるのもごめんだと思っていた。
だから一人でよかったし、独り身で特に不満足なことは一つもなかったんだ。年末年始だからどうとかもなく必要なものを自分のために、自分の分を用意すればよかった。
ただ。
「……」
ただ。
――成徳さん。お疲れ様です。お仕事、大変そうです。ご無理なさらないでくださいね。
ただ、今はそうじゃなくて。
モテたいと思ってる。
たった一人に。
「はぁ」
そして、一人でよかったと思わなくなって、一人がいいと満足しなくなって、必要なものは自分のためにではなく、ただあいつのためにと、必要なものを必要なだけ用意したくなる自分がいる。
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