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第4話

その日如月は、残業に精を出していた。来週、蓮見が会食する相手の中に、ヴィーガン(完全菜食主義者)がいるという情報が入ったのだ。適当な立地の店を急遽探しているものの、直前のせいか、なかなか予約が取れないのである。  お先に失礼します、という挨拶と共に、一人また一人と部下たちが帰って行く。その時、机上にスッと紙が差し出された。 「こちら、よかったらご参考にしてください」  部下の一人、森崎(もりさき)だった。いつの間にやら、残っているのは如月と彼女だけだ。 「私、友達にヴィーガンがいるんで。この辺り、予約が取りやすいと思います」  紙に書かれていたのは、店の候補だった。連絡先やメニュー、立地に加えて、混み具合も細かく記されている。単なるホームページの切り抜きではなかった。 「これ、森崎さんがまとめてくれたんですか」  いつの間に、と如月は目を見張った。 「はい。差し出がましいかとは思ったんですけど、少しでもお役に立てればと。……あっ、自分の業務はちゃんとこなしましたよ?」  慌てたように、森崎が付け加える。如月は、クスッと笑った。 「心配してませんよ。近頃の森崎さんは、自分の仕事も完璧に終えた上で、同僚や後輩たちにも目を配っている。すごい進歩だと思いますよ?」  森崎が新人の頃は、如月が指導係をしていたのだ。当時はミスばかりで、本人は異動も考えていたらしいが、どうにか奮起し、今や後輩指導もできるくらいに成長した。本人には内緒だが、昇格させようかと密かに思っているくらいである。 「ありがとうございます! まあ、それは、昔に比べれば……」  当時を思い出したのか、森崎は赤くなった。 「これは、かなり助かりますね。わざわざ、ありがとう」  早速目を通し始めると、森崎はその一枚を手に取った。 「よかったら、予約の電話とか、お手伝いします」 「そこまでしてくれなくても。後は私一人でどうにかなりますから、もう帰ってもらって大丈夫ですよ?」  如月は森崎を気遣ったのだが、彼女はなかなか立ち去ろうとしなかった。ややあって、彼女は決心したように如月の目を見た。 「あの。お付き合いされている方って、前に仰っていた、社外の方なんですか」  如月は、思わず森崎の目を見返していた。実は指導係時代、如月は彼女からアプローチされていたのだ。吹っ切らせるためと、当時付き合い始めた真島とのことがバレないよう、如月は『社外に恋人がいる』と嘘を吐いたのである。だが二年近く前のことを、まだ覚えていたのか……。 「森崎さん……」 「すみません!! ノーコメントって仰ってるのに、詮索して」 森崎は謝罪したが、その瞳にはなぜか怒りが宿っていた。 「ただ私は、その人に腹が立ったんです。二年もお付き合いして指輪までもらってるのに、何で返事をしないのって。事情があるんじゃないって、先輩には言われましたけど……」  何やらまずい流れになってきたな、と如月は思った。森崎から好意を寄せられていたのは、遙か昔の話だ。その後彼女には、彼氏ができたという話も聞いた。完全にビジネス上の関係になったと、安心していたのだが……。 「森崎さん。心配してくれるのはありがたいし、そもそも職場にプライベートな話題を持ち込んだのは、私です。でも、これは私とその人との問題ですから……」 「私、如月さんのことが好きです」  この台詞を出させまいと思ったが遅かった、と如月は歯がみをした。 「新人の頃から、もうずっと……。でも彼女がいらっしゃるし、だから諦めようって何度も思いました。けど彼氏を作っても、やっぱり如月さんのことがチラついて、それでダメになって結局別れました」  森崎は、怒濤のように語っている。『室長』ではなく名字呼びになっているのは、新人時代に心が戻っているのだろうか。そんな思いが、如月の頭をかすめた。 「私って気が利かないしとろいし、正直秘書には向いてないって思ってます。それでもここで頑張ってきたのは、如月さんがいたからで! ……そんな彼女なんかより、私じゃダメですか? ずっと、おそばにいたのに……」  森崎は、泣きそうな顔をしている。今回ばかりはミスったな、と如月は思った。まさか、彼女が未だに自分を想っているとは、想像していなかったのだ。 「森崎さん。異動を、考えてみますか」  一瞬、彼女が息を呑んだのがわかった。 「私、そんなにうざかったですか!?」 「そうではなくて。この狭い秘書室で一緒にいるから、私ばかりに目が行ってしまうんでしょう。それでは、あなたが幸せになれないから」

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