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蜂蜜よりも甘いもの… 6(☆)
「……え?」
「……っ、いって〜……!」
ここでレイヴンが顔を上げたことと、隣の大男からうめき声が上がったことは、ほぼ同時だった。
「お? 気づくの早いな」
シンは視線を横に流すと、どこか感心した口振りでマキトに言った。
マキトは両手をベッドにつき、頭を豪快に左右に振った。そしてレイヴンが見知らぬ男に抱かれていることを目にするや否や、カッと両目を見開き、鬼の形相で二人を睨みつける。
「なんだ……このっ……レイヴン〜! お前……自分の罪から逃げて余所の男と寝てたのか! 許さんっ……許さんぞおお!!」
血走る眼は、もう何を言っても届きはしない。レイヴンは涙を引っ込めると、シンを庇うように前に出た。
「シンさんっ! 逃げてくださいっ!」
「死ねや、このクズ共おおお!!」
そして大きな拳が、レイヴン、シンの二人に向かって勢いよく振り下ろされた。
ああ、死ぬ。刹那、レイヴンはそう覚悟した。
「ぐああっ!」
だが、痛苦を伴う叫換が上がったのは、自分達の方ではなかった。
瞼を閉じる間もなくそれは行われたはずなのに、レイヴンには何が起こったのかがわからなかった。
気づいたら、目の前でマキトが両足をバタバタと浮かせていた。何かが顔に覆い被さり、そこから垣間見える苦悶の表情は、必死になって何かを両手で掴んでいる。
対してシンは、どこにそんな力があるのか、地に両足を着けて、マキトの顔を握りつぶさんとばかりに片手の平で掴み、それを高く持ち上げていた。まるで野兎でも狩って、遠くにいる相手へ知らせるように持ち上げるのと同じ光景だ。マキトが掴むもの、それはシンの屈強な腕だったのだ。
軽々と行われるそれは、夢でも見ているのではないかと、レイヴンは自身の目を疑ったほどだ。
しかしシンの声音は大層低く、同時に凍てつくような空気を纏う、冷淡なものだった。
「お前、何と言った?」
「う、ぐうううっ……!」
「死ねと言ったのか? このオレに」
「ぎゃああっ!!」
ベッドに尻を乗せているレイヴンからは、シンの表情が見えないが、その声には明らかに怒気がこもっている。大男のマキトを持ち上げるだけでも大した怪力だというのに、シンはマキトの顔を掴む手にさらに力を込めた。ミシミシと骨が軋む音が、悲痛な叫び声にも掻き消されることなく、小屋の中で響いた。
わなわなと震えて声も出ないレイヴンは、開いて閉じない口を両手で抑えるのが精一杯で、その残酷な光景をただ見つめるしかなかった。
わからないのは、シンがこれほどまでの憤りを見せる理由だった。マキトが自分共々殴りかからんとしたことは、確かに許せるものではないだろうが、この怒りはそれだけに留まらない気がしてならなかった。
ふと、シンはあることに気づいたようで蔑むように嘆息を漏らした。
「こんな時でも勃つのか、人間という生き物は。……ああ、こんな時だからこそ、子孫を残そうと本能が働くのか?」
そう言って、マキトのまだなお反り勃つ陰茎を、服越しからもう一方の手で鷲掴んだ。マキトの口から、豚が轢き殺されたような悲鳴が上がった。
「や、やめ……はなっ……離してっ……離してくださいいぃっ……!」
顔面のあらゆる場所から噴き出す体液が、シンの手元を濡らした。すっかり口調も変わり、必死に懇願するマキトに、シンはいくらか機嫌が直ったのか、笑みを含んだ声音で極めて明るく言い放つ。
「嫌よ嫌よも好きのうちって言葉、知ってるか? あれは嫌がる相手に多少なりとも好意的な感情がある場合に当てられる俗語らしいが……お前のように相手を思いやることもできん、理性の利かない直情的なやつは、将来子孫を残してもろくなものに育たないだろうからな。性欲もコントロールできていないようだし、何より今後、お前に付き合わされる女子供が可哀想だ。だから……」
「うぎゃあああ!?」
それとほぼ同時に、レイヴンの口からも短い悲鳴が上がった。
「要らないよな? こんなもの」
プラン、とシンが指で摘むものは、つい今までマキトの一部だったものだ。
顔色一つ変えないシンは、今度は自身の声音に善意を乗せて、マキトに言った。
「良かったな。これでもう、性欲に振り回されることなく、余生を過ごせるぞ」
それは死刑宣告と同義だった。雄の象徴とも呼ぶべきそれを根本から引き千切られてしまっては、マキトはもう二度と子種を作ることも、血筋を後世に残すこともできはしない。
この村で子を成せない男は、ただの穀潰し……畜生以下として扱われる。それをシンが知ることはないにしても、同じ男であれば今やってのけたことがどれだけ残忍なものであるか、わからないはずがない。
マキトはぐるんと白目を剥いたかと思うと、口からブクブクと泡を吹いて失神してしまった。
シンはパッと手を開くと、マキトは脚から順に床へ倒れた。その広い背の上に、塵でも捨てるかのようにシンは手の中の男根を放り投げる。
「ああ、悪いな。レイヴン。家の中を汚してしまった」
くるりと振り返るシンの足元は、瞬く間にできた血溜まりで満たされていた。
普段と変わらぬ微笑を浮かべるシンを前にしても、レイヴンから震えは消えなかった。当然だ。たった今、凄惨な光景を目に焼きつかせた張本人が、まるで人が変わったように自分の前で振る舞うのだから、恐怖を感じないはずがない。
レイヴンは小刻みに震える身体をそのままに、シンからゆっくりと視線を落とした。しかしピタリと、ある部分で首が止まり、レイヴンは魂がその身体に戻ったかのように声を張り上げた。
「そんな……そんなことよりっ……シンさんっ! お、お腹の傷がっ……!」
「ん? ……ああ、裂けたか」
やはり、よほどの力だったのだろう。順調に回復しつつあった腹の傷が裂けたらしい。服越しからもはっきりとわかる、ダラダラと流れる真っ赤な血が、マキトの床のそれと混ざり合うのに時間はかからなかった。
これでもかと見開かれるレイヴンの両眼。シンは何でもないように答えた上で、続けて倒れるマキトについて補足するように言ってのけた。
「イチモツを取っただけで野郎は死なねえよ。宦官っていう役職もあるくらいだ。少しばかりの痛みは感じただろうけれどな」
「少し、ばかりって……」
もう一度マキトを見ると、僅かに開いているだろう気管支から「カヒュー、カヒュー」という呼気が聞こえる。虫の息だが、シンの言う通り生きているのだ。
そこからのレイヴンの行動は早かった。乱れた服をそのままにマキトの下へ駆け寄ると、自分の指の腹を噛み切り、躊躇うことなく彼の口腔へ押し込んだ。
シンは濡れた両手を手拭いで拭きながら、しばしレイヴンを見つめた後、やれやれといった様子で肩を竦めた。
「誰でも助けるんだな。レイヴンは」
そう言う口元は微苦笑を浮かべており、満更でもない様子だ。
喉仏が僅かに上下したのを確認すると、レイヴンはマキトの口から指を引き抜きつつ、シンへ声をかける。
「シンさんも……早く僕の血を飲んでくださいっ」
「あー……それはありがたい申し出なんだけどな、レイヴン。その前に、だ」
ゴソゴソと衣擦れを立てるシンは、元より着ていた自身の衣服へと着替えていた。すでに腹には手拭いを折り畳んだものを当て、簡単な止血を施している。
そして上からマントを羽織り全身黒ずくめになると、マキトの身体を掴み起こした。
「こいつを村まで戻してくる。麓の村だろう?」
まさかの発言だった。いくらシンが怪力であれど、小屋から村までは距離がある。手負いの人間が熊のような大男を担いで運ぶなど、道中そのまま命を落としてもおかしくない。
レイヴンはシンのマントを掴み、引き止めた。
「だ、駄目ですよっ! そんな怪我じゃ、すぐに倒れちゃいます。それに……それに……!」
何より、村の人間に一人でも見つかろうものなら、シンの存在はあっという間に知れ渡ってしまう。マキトをこんな目に遭わせた彼だ。袋叩きでは済まされない。また、マキトが意識を取り戻した時に、シンの存在が露見されれば、村のすべての人間がこの小屋まで押し寄せてくるだろう。
先を言えずにいるレイヴンの、シンのマントを掴む手に、ぎゅっと力がこもった。
そんな彼の頭に、シンは優しく手を置いた。
「絶対に見つからないから、大丈夫」
「え……?」
「その為に着替えたんだ。闇と同化すれば気づかれることはないだろう? それに、こいつが目を覚ましたらここへ来たことも、オレのことも、綺麗さっぱり忘れているよ……まあとりあえず、レイヴンはここで待っていてくれ」
ふと、レイヴンの手から力が緩むなり、シンはマキトを担いでさっさと小屋の外へと出ていった。
パタン、と静かに閉じられる小屋の扉を、しばし呆然と見つめるレイヴンだったが、ハッと我に返り、慌てて小屋の外へと駆け出した。
「待ってくださいっ……! せめて灯りを……!」
しかし辺りには、人っ子一人いなかった。こんな夜中に灯りもなく出歩くなど危険だというのに、シンは忽然とその姿を消したのだった。
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