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第1章 1

 瀬那の人生はいつも妥協の連続だった。厳しい父とその顔色を窺う母。一人っ子だった瀬那は厳しい父に殴られることがよくあったし、父に反発できない気の弱い母は瀬那を助けられなかった。母も今の瀬那と同じように人の顔色を窺いながら生きていたのだ。  仕事は区役所の区民課という堅い職業だ。窓口業務のときは、訪れた区民から「公務員は楽でいいよな」と文句を言われたり、ときには理不尽に罵倒されたりすることも多かった。  よくも悪くも、瀬那の曖昧な性格が窓口に来たそういう区民の対応に向いていた。区民税が高いと文句を言いに来た区民の対応をしたとき……。  ――申し訳ございません。私共には税金を免除する権限はありませんので……。  瀬那は申し訳なさそうな表情と共にそう答えた。返答はそれのみだ。なにを言われても一貫して変えなかった。それは課の取り決めでもあったが、本当のところそれしか言えないのだ。  どんなに怒鳴っても瀬那が同じ言葉ばかりを繰り返すので、最後には区民が根負けして帰るのがいつものパターンだ。だから窓口に厄介な区民が来たときは必ず瀬那が呼ばれた。  こんな曖昧な性格でも役に立つのだなと思ったこともあるが、正直ストレスは溜まる。「クレーム担当から代えていただきたいのですが……」と言えない性格だったので、仕方なく対応していただけの妥協である。  そんなストレスにまみれた生活の中で、唯一のオアシスは恋人と一緒に過ごす時間だった。  優成は初めてできたゲイの恋人だったから、瀬那の依存は強かった。自分を理解してくれる相手に出会えた奇跡を大切にしていたのだ。しかしその幸せな時間はちょうど三年目の区切りの日に打ち砕かれた。  ――もう終わりだって言ってんだろ!  恋人の辛辣な言葉に何度も傷つき、それでも優成を失いたくなかったのに――。しかし瀬那は恋人を失った日に、自身の命を失うことになってしまったのである。  微かに花の香りがする。風の音が耳元で聞こえて、瀬那はゆっくりと目を開けた。目の前に青空が広がっていて、ゆっくりと雲が流れている。 「あ、れ……?」  瀬那は小さく呟く。自分がどこにいてどうなっているのか、全くわからなかった。しばらく流れる雲を見つめていた。目の前を白い小さなモンシロチョウがふわふわと横切っていく。もしかしたら夢の中にいるのかな、と考えたが、吸い込んだ空気は暖かいし花のいい香りが心地いい。夢に匂いや感触がこんなにリアルなことがあるのだろうかと疑問が湧いた。  ゆっくりと上半身を起こす。突いた手には土の感触があり、瀬那は思わず自分の手元を見る。しかしそれよりも、辺り一面に見たことのない数の花が咲いており、とにかくそれに驚いてしまう。その花も瀬那が初めて見る種類だった。菊のように花びらがたくさんついているのだが、その花の色は七色だ。赤、橙、桃、青、緑、黄、それがグラデーションになっていた。手で触れてみると、指に当たる花びらの感触は本物の花である。 「すごい色だな」  ザワ……ッ、と風が吹くと、その花たちが一斉に揺れる。それと同時に花びらの色が水に絵の具を落としたかのように、ユラユラと動いていく。あまりの美しさに瀬那は目を奪われた。

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