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第12話

なんだか緊張してしまう。 『凛のOK取れたから、今夜行くね』 いつものように彼の朝食を準備している途中、少し早めに起きてきた彼にそう声をかけられた。 『あ、うん……』 とりあえずそう返事はしたものの。 出来ることならキャンセルしてくれないか…なんて胸の中では願ってしまう。 カウンターの前をお客が通るたびにドキドキする僕を、目の前に座る常連の客がクスクスと笑う。 「なんだか緊張してるみたいですね。今夜は何かあるんですか?」 物腰の穏やかな、まだ年若い青年の言葉に、僕は思わず激しく首を振った。 「いえ、何も……」 「そうですか? でもさっきから心ここにあらずな感じですよ」 そう言って、その客は空のグラスを掲げてみせる。 「俺の注文、聞こえてませんでしたか?」 「あ…申し訳ありません」 新人じゃあるまいし、そんな失態などとんでもないことだ。 慌てて頭を下げた僕に、その客はまたクスクス笑ってマルガリータをもう一杯と言った。 「本当に申し訳ありませんでした。……実は今夜、知り合いが僕の仕事を見に来るって言ってたので、緊張してしまって」 オーダーされたマルガリータを作りながら言い訳がましくもそう言えば、その客はそうだったんですかと小さく笑う。 「でもその気持ちは分かりますよ。ところでその知り合いの方、恋人ですか?」 思いもかけない問いかけに、僕はまた慌てて首を振る。 「とんでもない。弟の知り合いで…今は訳あって同居中ですけど」 「それは失礼。俺の早とちりだったようで」 「いえ……。お待たせいたしました」 そっとグラスを差し出せば、その客はすぐさまグラスを手にして一口飲んだ。 「俺もここで待ち合わせなんですけどね。実は約束よりも早く来すぎて手持ち無沙汰なんです。仕事に差し障らない程度で、話し相手になっていただけませんか?」 ちょっと控えめにそう聞いてくるその客に、僕はどこかホッとしながら頷いた。 実は緊張でもう何度もグラスを落としそうになったり、注文を間違えそうになっていたから、何か気を紛らわせないものかと思っていたところだったから。 話題が豊富で話し上手なその客は、結局それから30分ほど僕と話したあと、迎えに来た待ち合わせの相手と一緒に店を出て行った。 蕩けそうな眼差しと笑顔に、きっと恋人なんだろうな…なんてことを考えて少しばかり羨ましくなる。 健志と一緒にこういう店へ飲みに行ったことはなかったけど、もしそんなことがあったらきっと僕も、あの客みたいな笑顔を浮かべていたって自信だけはあるから。 「……行ってみたかったな、君と」 ついそんな呟きがもれて、苦笑する。 もっともっと君とたくさんの時間を過ごしたかった。たくさんのことを話したかった。あんなふうに喧嘩別れしたままじゃなくて…もっともっと幸せなままでいたかった…… 「―――つさん。水都さん?」 呼びかけにハッと顔を上げれば、心配そうにカウンター越しに僕を覗き込む彼。 「あ……」 「どうしたの? 泣いてる……」 すっと伸びてきた腕が、どこかためらうように僕の頬に触れた。 「何か、悲しいことでも思い出した?」 そう聞いてくる彼の瞳のほうが泣きそうに揺れていて。僕は小さく首を振ると、慌てて目元を拭って笑顔を向けた。 「ごめんね、気付かなくて。今来たばかりだよね? あれ、凛は?」 健志のことを思い出してたなんて彼には言いたくなくて、まるでごまかすように矢継ぎ早に質問を投げかければ、彼はまだ何か言いたそうな顔をしたけど何も言わず、ただ小さくため息をついてスツールに腰を下ろした。 「ドタキャンされた。あいつの恋人、本当は今夜バイトだったらしいんだけど…金欠の仲間に頼まれて代わってやったらしいんだ。まったく…悪いなって言いながら嬉しそうな顔されちゃダメとも言えなくてさ」 「そうだったんだ……」 「罰として今夜の飲み代は全部凛につけてやることにする。ねえ水都さん、一番高いのくれる?」 そう言う彼に、クスクスと笑いがもれた。 口ではそう言ってるけどきっと、彼のことだから自分でちゃんと払っていくんだろうな。 「じゃあ、注文どおりに一番高いのを。少し待ってて」 そして僕は手早くシェイカーの中に数種類の酒を調合し、カクテルグラスに注いで彼の前に差し出した。 「……これ?」 不思議そうな彼に頷けば、そっとグラスを持って口を付けてくれる。 「……新しいカクテル? うまいよ」 「そう、僕のオリジナル。出すのは初めてだけどね」 少し緊張しながら答える僕に、彼は驚いたような表情を向けてきた。 「調合は秘密。お店に出すのもこれっきり。だから値段が付いてないんだ」 「なるほど…値段が付けられないわけだから一番高い酒だね。あ~あ、でも凛に請求してやれないのはちょっと残念かな」 笑いながらそんなことを言って、彼はまたカクテルを一口飲む。 「後でおかわり頼んでもいいかな、これ」 「うん、喜んで」 彼が喜んでくれたのが嬉しくて、僕はさっきまでの緊張も健志との後悔もすっかり鳴りを潜めてしまっている自分にまた苦笑がもれた。 「凛とは…まだ連絡取ってるの?」 「まあ、時々。いつもあなたのこと心配してる」 「……健志のことは……」 それに彼は小さく首を振った。 「俺が言っていいことじゃないと思ったから……。本当はそれもあって、凛と一緒にここへ来たかったんだ」 「そうだよね…ちゃんと僕が、自分で言わなきゃいけないことだよね。凛にも、ずいぶん心配かけちゃったし」 「うん。だからさ、安心させてやってくれないかな」 そんな彼の言葉に、ツキンと胸が痛む。 凛とはもうなんでもないって彼は言ってた。 凛にはもう別の恋人がいて…自分は入り込む隙間もないから諦めたって。 だけど…だけどもしかしたら、彼はまだ凛のことを忘れていないのかもしれない。僕がまだ、健志を忘れられないように。 「向こうへ戻った頃に電話しておくよ。恋人と一緒なら邪魔しちゃ悪いし」 そんなことを言ったあとでハッとして彼を見れば、面白そうな顔をして笑っていてくれるのにホッとした。 「そろそろおかわり、作ろうか?」 グラスにはまだ半分くらい残っていたけれど、僕がそう声をかけると彼は頷いて残りのカクテルを飲み干してくれた。 「ねえ水都さん、ここやめてもこういう仕事したらどう?」 「え?」 「ほら、この間言ってたでしょ。昼間の仕事をしようかって。あれだけど、水都さんは喫茶店とかそういうのが似合ってるなって思ったから」 「そ、そう…かな」 「絶対合うと思う。嫌じゃなかったらちょっと覚えておいてくれる?」 それに頷いて、僕は新しいグラスを彼に差し出す。 全然そんなこと考えてなかったけど…彼がそう言うなら、喫茶店のウェイターの仕事もいいかな、なんて現金なことを思いながら。

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