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第14話

それは突然のことだった。 「え? お店閉めるんですか?」 いつものようにやってきた喫茶店のカウンター席。今日は他の常連さんの姿は見えなくて、フロアの席を埋める別の客が静かに時を過ごしているだけだった。 「本当はもっと早くに閉めるつもりだったんですけどね。私も年を取ったというか……」 「そんな。マスターはまだまだ若いじゃないですか」 僕が思わずそう言い募ると、マスターは少し照れくさげに笑いながら僕の前にいつものコーヒーを置いた。 「まだまだ若い…か。それはありがとうございます。じゃあ、その若いうちに後悔がないようにやっておきたいことがあるんです」 そんなマスターの言葉に顔を上げれば、何かを懐かしむような瞳が僕を見つめていた。 「この店を開いたのは、ちょうど私があなたくらいの年の頃だったでしょうか……。とてもとても好きな人がいてね、2人で小さな喫茶店を開くのが夢だったんですよ」 突然身の上話を始めるマスターに驚いたけれど、僕は黙って頷いてその続きを待つ。 「でも様々な事情からその人は、私を置いて一人海を渡ってしまった……それでも忘れられなくて、こうして2人の夢だった店を開いていれば、いつか帰ってきてくれるかもしれない。そんな希望をね、持ってたんです」 「…………」 そして差し出される、いつものコーヒーゼリー。 「これを考えたのがその相手で、その人はカウンター席にしか座らなかったから……いつかここへ帰ってきてくれたときに、たとえ私のことを忘れてしまっていたとしても、この味を覚えていてくれたら気付いてくれるかもしれないなんて期待をして……」 ああ、だからカウンター席だけの特典なんだと僕はやっとそれを理解した。 「その人を、捕まえに行くんですか?」 思わずそう聞いてしまった僕に、マスターはどこか切なげに小さく首を振る。 「いいえ。会いに行くだけです。その人にはその人の人生や、暮らしがちゃんとありますから。私の存在でそれを邪魔したくない。でも、たった一度でいいから、会いたいんです」 静かな、それでいて激しい恋。 「僕は、5年前に一緒に暮らしていた恋人を亡くしたんです。些細なことで喧嘩して、出て行けって追い出したあと、事故にあって……。僕がその人を追い出したからだって自分を責めて責めて、何度もあとを追いかけようとしました。でも、そのたびに僕のそばにはそれを止めてくれる人がいて……」 健志のことを話せば、やっぱりまだ切なくて涙が溢れそうになる。 「よかったですね、引き止めてくれる方がいて。あとを追うことは簡単ですが、それはただの自己満足です。残された人々の心にキズを残すだけのことです。もちろん、あなた自身が心に負った傷は計り知れないと思いますが……」 そんなマスターの言葉に、胸が痛む。 今こうして、何もかもから開放されて穏やかな時を過ごせるようになって振り返るあの頃の僕は、まさにマスターの言うとおりだったから。 周りを傷つけて、気を遣わせて、自分だけが辛いような顔をしていた。 「夜の街で、自暴自棄になってた僕を拾ってくれた人がいました。その人の店で働くようになって、やっと僕は閉じこもっていた殻から出られるようになったんです。だけど、いつまでもその人に甘えてちゃいけない、逃げてちゃいけないって思ってその店をやめて…今は、リハビリの最中なんです」 そう言って僕が笑うと、マスターも穏やかな笑みでおかわりのコーヒーをくれた。 「夜の店は心地よかったですか?」 「そう…ですね。昼間のような喧騒もなければ、詮索もない。もっとも、そういう落ち着いた店だったからかもしれませんけど」 「そうですか。ところで、そのリハビリはいつまで?」 「え?」 マスターがなにを言いたいのだろうかと訝しめば、どこか申し訳なさそうな笑みを浮かべて実は…と切り出された。 「もしあなたさえよければ、この店を継いでもらえないかと思ったんです」 「……え? この店?」 そんなことを突然言われても、返事に困ってしまう前ににわかには信じられない。 「完全にたたんでしまうつもりでした。売りに出して、誰かの手に渡るのは嫌なので…この建物ごと取り壊してしまおうかとも。でも、今のあなたの話を聞いていて、あなたにならこの店を続けてもらいたいと…そんな勝手なことを思ってしまったんです」 やはりどこか申し訳なさそうに言葉を続けたマスターに、僕はなんて返事をしたらいいのか困ってしまう。 「返事は急ぎません。でも、もし少しでも興味を持ってくださったら、いい方向に考えてみてはもらえませんか?」 それに僕はただ頷くことしか出来ない。 「……ごちそうさまでした」 なんだか逃げるように立ち上がってしまった僕を、マスターのどこか寂しげな瞳が見送ってくれた。 翌日が休みでよかった…このときばかりは、心底そう思った。 「水都さん? コーヒーこぼれてるけど」 彼の焦ったような言葉にハッとすれば、飲みかけて持ち上げたままのカップからこぼれたコーヒーがテーブルを濡らしていた。 「わっ、ごめん」 慌てて布巾で拭いてくれていた彼が、じっと僕を見つめてくる。 「何か悩んでる?」 「…………」 「俺じゃ、相談にも乗れないこと?」 「そんなんじゃ……」 でもそう言いながら、彼に昨日のことを一言も話していないのは、相談できないことだと思われても仕方ない。 「実はね…この間話した喫茶店のオーナーから、店を閉めるからあとを継がないかって言われて……」 昨日のマスターの話を思い出しながら彼にそれを告げると、最初驚いたような表情をしていた彼が、薄く微笑む。 「いいんじゃない? 水都さんなら似合いそうだし、せっかく通ってるお客さんも店がなくなるのは寂しいんじゃないかな」 「でも……」 「もちろん決めるのは水都さんだし、お客さんのために無理をしろって言ってるんじゃないよ。ただ、最初から出来ないって決めるんじゃなくて、チャレンジしてみるのもいいんじゃないかって思っただけ。そのオーナーだって、水都さんだったらって言ってくれたんでしょ? 見る目あるね、その人」 そんな彼の言葉がこそばゆい。 「でも…挑戦してだめだったら……」 「その時はそのときでまた考えようよ。夜の店で働き出した時も、そんなこと考えたの?」 その問いに、僕は小さく首を振った。 お酒の知識もバーテンとしての知識もまったくなかった。それでも、あの店のオーナーは僕を拾ってくれて、ゆっくり慣れていけばいいからってそう言ってくれた。その言葉と優しさがあったから、僕は必死になっていろんなことを覚えたし、ここまで続けてくることも出来た。 「……一緒に来てくれる? なんだか一人で行くの、心細いんだけど」 無理を承知でそんなわがままなお願いを言ってみれば、彼はまた微笑んで頷いてくれる。 「月曜日に有給取ったからちょうどいいかな。ついで…って言っちゃなんだけど、墓参りも」 それに僕は頷いて、新しいコーヒーを淹れるために席を立った。

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