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第15話

月曜日の開店と同時くらいに、僕は彼を伴ってその喫茶店へと急いだ。 「あれ? この店……」 「知ってるの? 隼人さん」 「うん、まあ……」 なんとなく言葉を濁す彼に、きっと昔付き合っていた誰かと来たことがあるんだろうと僕は勝手に考えて、それ以上を聞くのはやめた。 ドアベルの軽やかな音が店内に響き、コーヒーのいい香りが鼻を擽る。 「いらっしゃい」 いつもと変わらない愛想のいい笑顔を浮かべて迎えてくれたマスターにホッとして、僕は彼と共にカウンターに席を取った。 「……もう来てもらえないんじゃないかと思ってました」 いつものコーヒーを差し出してくれながら、マスターがどこかホッとしたように言う。 「あの時はすみませんでした。失礼な態度を取ってしまって……」 「いいえ。突然あんな話をしてしまった私が悪かったんですから」 そうして差し出されるいつものコーヒーゼリー。 「初めまして…ではないですね、こちらの方。これでもね、カウンター席に座ってくださったお客様は覚えているほうなんですよ」 そう言って笑うマスターに彼へと視線を向ければ、驚いたように頷いていた。 「すごいな…俺がこの店に最後に来てから、そろそろ1年だっていうのに」 「数少ない自慢ですよ」 途端に流れる和やかな雰囲気に、本当に僕でいいんだろうかってまた不安が襲う。 だけどそんな僕の気持ちを分かってくれたみたいに、彼が大丈夫ってサインを送ってくれたから。 「あの…先日の件なんですけど……」 そう切り出す僕に、マスターは期待半分諦め半分の視線を向けてくる。 「あの…もしも本当に、僕でもいいのなら……」 自信がなくて俯いてしまう僕の背を、彼の手が優しく支えてくれた。それに勇気をもらって顔を上げれば、驚いたようなマスターの表情。 「……本当ですか?」 それに頷くと、心底ホッとしたような笑顔を浮かべてくれた。 「正直言うと、もう諦めていたんです。この店を閉めることも、あなたにこの店を託すことも、決めたのはもうずいぶん前なんですよ。ひとりでは決めかねて、みんなにも相談しました。みんなあなたなら大丈夫だって太鼓判を押してくれたので、思い切って話してみたんです」 まさかそんなこととは思わずに、マスターの思い付きだと勘違いしていた自分が恥ずかしい。 でも考えてみればそうだよな……。これだけの店を誰かに託すなら、それなりの覚悟だって必要だ。 「何もかも一からの勉強ですけど、教えてもらえますか?」 それにマスターはまた穏やかに安堵した表情で頷いてくれる。 「もちろんですよ。ありがとうございます」 深々と頭を下げられて、僕は慌てて立ち上がると同じように頭を下げた。 そんな僕たちを、彼は隣の席で穏やかな笑みで見つめてくれていた。 店を出て、彼の車に乗り込んで向かう先は健志のお墓。 月に一度、命日には参ろうと言ってくれたのは彼のほうだった。 「じゃあ俺、先に車戻ってるから」 お参りを終えた後、彼はそう言って早々に車へと戻っていく。 それはいつだって、僕に気を遣ってくれてのことだ。 「健志…僕ね、喫茶店をやるんだ。明日から猛特訓だよ、大丈夫かな~」 たくさんの不安と、少しの楽しみ。 君がもし生きていて僕のそばにいてくれて、僕がこんな相談をしたらどんな答えをくれるんだろう。 彼と同じように、大丈夫だって笑ってくれるのかな。 「おいしいって言ってもらえるコーヒーの淹れ方、ちゃんと習わなきゃね。しばらくは隼人さんに実験台になってもらう予定なんだけど」 もちろんこれは、彼にはまだ内緒。 お店でマスターに習った淹れ方にしたら、分かってくれるかな…なんて少しだけ期待してるんだけどさ。 「今日はね、これから隼人さんのお勧めのお店でランチなんだよ。こんなふうに外で食事をするのも久しぶりだから嬉しくって。いつも家事をやってる僕へのお礼だって隼人さんは言うんだけどさ、それなら僕のほうが感謝しなきゃね。いつも文句ひとつ言わずに全部食べてくれるから。……そういうとこ、君にそっくり。やっぱり兄弟なのかな……」 今になって、彼と健志にたくさん共通しているところがあるのが分かる。 食事のくせとか、話し方とか、ちょっとした仕種。 「……また来るね、健志。仕事の愚痴とか言っちゃったら黙って聞いててね」 吹っ切るように立ち上がって、彼の待つ車へと急ぐ。 助手席に滑り込めば、彼はいつもどこか複雑そうな笑みを浮かべて僕を見た。 「もういい? ずいぶん早かったけど」 「うん、ありがとう。お墓に向かってひとりでぶつぶつ喋ってるのってなんだか不気味じゃない?」 「水都さんならそうでもないかも」 「どういう意味? それ」 プッと膨れる僕に彼はただ笑うだけで、その答えはくれない。 「じゃあ行こうか。水都さんが気に入ってくれるといいんだけど」 「美味しいものだったら何でも大歓迎。ちゃんと味を覚えてまたうちでも出すからね」 「それは楽しみだな」 動き出す車の窓から、そっと健志のお墓を伺い見た。 少しずつ、健志の墓石の前で過ごす時間が短くなってることは自分でも分かってた。 少しずつ、健志の存在を、健志への思いを過去のものにしようとしている自分を感じていた。 「……ねえ隼人さん……」 「なに?」 「さっきの喫茶店ね…オーナーの思い入れの詰まったコーヒーゼリーとクッキーの代わり、なにがいいかな。一緒に考えてくれる?」 マスターの大切な人が残していったコーヒーゼリーとクッキー。それを僕があの店と一緒に引き継ぐことは出来ない。 あれは、マスターだけの大切な人へのメッセージだったんだから。 「もちろんだよ、水都さん。でも俺の好みに偏っちゃったらごめん」 先に謝っとくね、と繋ぐ彼に笑い、思いを巡らす。 こうして一緒に暮らす中で知った、彼の好きなものを考えながら。

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