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第16話

夏の眩い日差しが降り注ぐ頃、マスターは笑顔で海を渡って行った。 「いよいよ明日がオープンか…なんだか緊張する」 見送りにきた空港で、遠く飛び立っていく飛行機を見送りながら水都が不安そうに呟けば、隼人はそっとその髪を撫でて大丈夫だよと笑顔を向ける。 わざと土曜日をオープンに選んだのは、隼人に一番に来て欲しかったから。 「大丈夫だよ、水都さん。それに俺が第一号の客になるからさ」 そんな水都の気持ちを知ってか知らずか、隼人はそう言ってまた笑う。 「うん…ありがとう。あなたにそう言ってもらえるとなんだかホッとする」 笑顔を返す水都を眩しげに見つめ、隼人はまだ触れたままだったその髪からそっと手を離し、俯いた。 何も望まないと決めたのに。 ただそばにいて、彼を支えて行こうと誓ったのに。 「隼人さん?」 不思議そうに自分の名を呼ぶ水都になんでもないと笑顔を向け、そろそろ帰ろうかと促す。 「うん。最後の特訓しなきゃ」 自分を奮い立たせるようにそう言う水都に、 「味見係は任せてもらっていいからね」 そんなふうに答える。と、水都は嬉しそうに笑って頷く。 「隼人さんに美味しいって言ってもらえたら、自信つきそう」 そんなことを言って。 慣れない仕事に戸惑いはもちろん多いけれど、それでも少しずつ増えてくる常連客に、水都は毎日が楽しくて仕方ない。 それはやはり隼人にも伝わっていたようで、毎日の朝食の席で今日の意気込みを熱く語るのが日課になってしまった水都に、嫌な顔のひとつもせずに笑顔で聞いてくれる。 「今日も1日、ファイト」 いつも玄関まで見送りに出る水都にそう言って笑い、隼人は出勤していく。 「行ってらっしゃい、気をつけて」 水都はそう言って隼人を送り出したあと、家の片付けだけを済ませて店へと急ぐ。 そんな平穏な毎日が3ヶ月ほど続いた秋の初め。 「いらっしゃいませ」 いつものように軽やかなドアベルの音と共に訪れたその客に、水都は驚いた。 「もしかして…関谷(せきや)?」 「え…って、水都? どうしておまえここに? マスターは?」 矢継ぎ早に質問を投げかけてきながら、関谷と呼ばれた男はカウンター席へと腰を下ろす。 「マスターを知ってるの?」 「もちろん。最近まで海外に飛ばされててさ、久しぶりに帰ってきたから来てみたんだ。ここ、俺の行き着け」 「そうなの? 全然知らなかった。僕ね、ここからすぐのマンションに住んでるんだけど、このお店があることも知らなかったくらいだったもん」 「ああ…そりゃまあ、あの頃のおまえって仁野に夢中だったもんな。他のことは一切目に入りませんって感じでさ」 そんなことを言われて、途端に恥ずかしくなる。 「そんなに? 自分ではそんなつもりなかったんだけど」 「バレバレ。あれだろ、同窓会で再会してからだろ? おまえらがそういう関係になったのって」 「う、うん……」 「そういうこともあるんだな~。で? 仁野とは今も仲良くやってんの?」 そんな関谷の問いに、水都は視線を落としながら呟いた。 「健志は…事故でね、5年前に亡くなったんだ」 「え? 嘘だろ?」 「だったらよかったんだけど……」 そう答えながら、儚い笑みを浮かべる水都はとても綺麗で。 関谷は思わずそんな水都の前に身を乗り出していた。 「おまえ今、一人なのか?」 「え?」 「仁野がそんなことになっちまって、それから誰かと付き合ったのか?」 それに水都は首を振る。 「だってまだ、健志を忘れられない。それでもね、ずいぶん思い出にはなったんだけど……」 隼人がそばにいてくれたから。 そのことに言い尽くせないほどの感謝を思う。 「……そうか、そうだよな。悪い」 「謝らないでよ、知らなかったんだから君が悪いわけじゃないし。それよりコーヒーでいいよね? マスター特製のブレンドの淹れ方はちゃんと教わったから」 無理をしたわけでもない笑顔にホッとして、関谷は頷いて店の中をなんとなく見回す。 あの頃と何も変わらない内装、そこにマスターがいるのが当たり前だった風景の中に、何の違和感もなく溶け込んでいる水都。 「でもなんで…おまえがここに? それにマスターは?」 そんな関谷に、水都はマスターとの間で交わした話をかいつまんで聞かせた。 「そうか…でもマスターさすがだな。おまえならって。俺さ、久しぶりにここへ来たって言っただろ? マスターの淹れてくれるコーヒーもだけど、あの雰囲気が好きでさ……それが少しも変わってなくて、なんかホッとした」 常連客であったらしい関谷にそう言われて、水都もホッとする。 マスターは大丈夫だと言ってくれたし、この店で働くことは楽しくてたまらない。それでもどこかで、自分でいいのだろうかという思いは消えなかったから。 「コーヒーもちゃんとマスターと同じ味になってる。……ずいぶん頑張ったんだな、おまえ」 しみじみとそんなことを言われて、水都は胸が熱くなった。 もちろん隼人だって他の常連客だって、いつだって水都に労いの言葉をかけてくれるし頑張っていることを知っていてくれる。 でも…こうして長い間離れていた相手にそう言ってもらうのはまた違うものだ。 「ごちそうさん、うまかった。仕事の途中でひと休みしに寄っただけだからもう行かなきゃ。またゆっくり来るよ」 そう言って立ち上がる関谷に、水都は嬉しそうに頷いて小さな袋を差し出した。 「これ、カウンター席のお客さんへのサービス。マスターと同じものじゃないけど」 「……サンキュー。ありがたくもらっとく」 嬉しそうな笑顔を残して店を出て行く関谷の後姿を見送り、なんだか満たされたものを感じる水都だった。

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