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第28話

ワンルームの狭いアパート暮らしと、一人の食事にもやっと慣れたのは、水都の下を離れてすでに半年以上が経ってからだった。 昔に戻っただけだ…そう思っても、寂しさは抜けなかった。 「マスター、久しぶり」 そう言って席を取ったバーのカウンター、マスターは相変わらず穏やかな笑みを浮かべていつもの酒を隼人の前に置いた。 「あのギャルソン…やめたんだ」 凛の新しい恋人を探してもその姿はなく、別のギャルソンが忙しそうに立ち働いている。 「ん? ああ…翔太(しょうた)くんのことかな。とっくにやめて今は一流企業の社員だよ」 穏やかな笑みを浮かべるマスターに、隼人はグラスを手にして小さく苦笑する 「そうか…もうそんなにも経ったのか……」 「時々、凛くんと一緒に来てくれるけどね」 「遠距離でも続いてるんだ」 羨ましいと思うのは、それだけ思いがちゃんと重なっていることにだ。 この半年、一度も水都には会っていない。 相変わらずあの店を切り盛りしているのだろうかとか、健志の月命日には墓参りを欠かさないのだろうかとか…そんなことを思うのに。 もしかしてもう、自分のことなど忘れて、新しい恋人がいるかもしれない……それが怖いのだと、隼人は自分の気持ちにため息がもれた。 離れても忘れられない。それどころかどんどん思いは募っていくばかり。 「ねえマスター…恋を忘れられる酒なんて、ある?」 「ええ、もちろん。凛くんがあなたに失恋した時に浴びるほど飲んでいたのがありますよ」 そんなマスターの言葉に隼人は驚いた。 「飲みますか?」 そう言って差し出されたのは、一見すると何の変哲もないブランデーのようだ。 これを飲んで、本当に水都を忘れられるなら…… 一度はそのグラスに手を伸ばしたものの、隼人はやはり最初に自分のグラスを持ち上げた。 「……やっぱりやめておくよ、マスター。俺はあの人を忘れたいわけじゃない…ただ苦しくて、逃げたかっただけだ……」 行き場のないこの気持ちを抱えているのが辛かった。伝えることも、忘れることも出来なくて。 「逃げていても苦しいだけです。ぶつかって砕けるのも、いつかはいい思い出になりますよ」 また穏やかな笑みを浮かべ、マスターがそのグラスを手にする。 「あなたが飲まないなら、私がいただいても?」 「マスターにも忘れたい恋が?」 「いいえ。私はそれほど苦しい恋をしたことはありませんのでね。その人はいつでも、私に幸せだけをくれますから」 そう言って、手にしたグラスを一気に煽る。 「マスター?いくらなんでも一気に飲んじゃ……」 「大丈夫ですよ。これはね、酒じゃありませんから」 「……え?」 「ぶつかってみたらいかがです? 一歩を踏み出してみなければ結果は変わりませんよ」 「…………」 隼人はグッとグラスを握り締め、詰めていた息を吐き出した。 「意気地なしなんですよ…俺は」 「長い人生のうちで勇気を出すことなんて数えるほどです。その出し所を間違えちゃいけませんよ」 それに隼人は苦笑で答える。 と、マスターはまた隼人の前になにやらグラスを差し出した。 「時々来て下さるお客さんからの奢りです」 トマトジュースに似たその飲み物に、隼人は水都を思い出す。 朝は食欲がないのだと言っていた水都が、よく飲んでいたものに似ている。 『隼人さんにもね』 いつからか、そう言って朝食には必ず出されるようになった。 『僕の特製野菜ジュース。何が入ってるかは秘密』 そう言って笑った水都を思い出しながら震える手でグラスを掴み、一口飲んでみる。と、それは間違いなく水都が作ってくれたそのものだ。 「どうして……」 「さあ…どうしてでしょう。その答えはあなた自身で見つけてください」 水都がここへ来てくれていると、そんな自分に都合のいい解釈をしてしまうことに自嘲がもれた。 健志を失った時、自分の殻に閉じこもってしまった水都が、今度は自分から動いてくれているのだと…そんな期待を持ってしまっていいのかと隼人は自問する。 まだ一緒に暮らしていた頃、この店へは数回水都を連れてきた。 常連だと紹介してくれたマスターの言葉を、覚えていてくれたのだろうかと。 「……ありがとうマスター。勇気を出してみるよ」 「砕けたらまた来てください。さっきの恋を忘れる酒を奢ります」 「そうならないように祈ってて欲しいね」 それに笑って頷いてくれるマスターに代金を払い、店を飛び出す。 とはいえ、まさかこんな時間に水都のマンションを訪ねることなど出来るはずもないし、とりあえず明日にでも店のほうへ訪ねてみようと気持ちを落ち着け、タクシーを拾ってアパートへと帰ることにした。 翌日、営業の外回りの合間に水都の店を訪ねてみた。 「いらっしゃいませ」 愛想のいい笑みと挨拶で店を切り盛りしているのは水都ではなく、どう見ても大学生らしい少年だ。 「あの…マスターは……」 「あ、ちょっと用事があるとかって出かけました。2時間くらいで戻るって言ってましたけど」 「……ああ、そうか。ありがとう」 そういえば今日は18日で、健志の月命日であることをすっかり忘れていた隼人は、今もまだ水都が習慣として墓参りを続けていることになぜか安堵した。 このまま仕事に戻ろうかと車に乗り込んだものの、もしかして会えるかもしれないとそのまま墓地へ車を走らせる。 次の商談まではあと1時間。もし会えたとしてもゆっくり話をしているヒマはない。でも約束を取り付けることくらいは出来るだろうと。 そしてやってきた墓地に、隼人は久しぶりに足を踏み入れた。 今までは駐車場で水都を送り出し、帰ってくるのを待っているだけだったから。 緊張で震える足を何とか動かし、健志の墓石に向かう。と、その前にしゃがみこんで手を合わす姿に足を止めた。 「水都さん……」 その名を呟く自分の声が震えているのが分かった。名前を呼ばれて振り返った水都の表情が驚きに揺れる。 「隼人さん……?」 思わず立ち上がった水都が隼人を凝視する。そしてその表情が柔らかく微笑む。 「……だめだよ、仕事の途中でこんなところに寄り道してちゃ」 あの頃と何も変わらない水都に、隼人はグッと拳を握り締めて精一杯の笑みを返して頷く。 「今ね、お店は週末も営業してるんだ。もしよかったら、また来てくれる?」 早く仕事に戻れと暗に言われているようで、隼人はそのまま小さく頷いて何も言わず背を向けた。 明日は土曜日。この決心が壊れてしまわないうちに、訪ねてみようと思いながら。

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