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act.7 Angelic Kiss 〜 the 3rd day 13

『──ごめん』 吐き出すようにそう言ったものの、心の中は重苦しい後悔でいっぱいだった。 もう、元の関係には戻れない。 何てことをしてしまったんだろう。大切な初恋の人とせっかく繋がっていたこの縁を、俺はつまらない衝動に流されて自らの手で断ち切ったんだ。 『ううん、謝らないで』 そっとかぶりを振りながら、彼女はさっきまで重ねていた唇をゆっくりと指でなぞった。まるで、ぬくもりを思い出すかのように。 細い指先が桜色の唇を撫でるその光景は妙に艶かしくて、鼓動が一段と速まった。 『拓磨くんの気持ちとはきっと同じじゃないけど……私も、拓磨くんのことが好きよ』 そう言って、花の開くような微笑みを向けてくる。それは、今までと少しも変わらない清らかで美しい笑顔だった。 『だから、今までと同じ関係でいてくれたら嬉しい。無理かな』 それは、振られた俺にとっては願ってもない申し出だった。 この手に掴むことができなくてもいい。 こんな細い糸でも、繋ぐことができたら。 俺にとって、彼女は神聖で大切な存在だった。 彼女と出逢えたことは、それだけで奇跡のように素晴らしい出来事だったんだ。 ミチルの祖母とは、改めて明日ミチルを荷物と共に引き渡す約束を取り付けることができた。 うまく行き過ぎるほどに事が進んで、胸を撫で下ろしながら帰路についたものの、気持ちはどうにも晴れなかった。 それは、やはりミチルの父親のことが引っかかっているからだ。 父親のことは、そう簡単に方が付く話ではない。 祖母のもとで世話になることが決まり、父親の待つ自宅に戻らずに済むというのに、ミチルの顔色は優れなかった。ハルカが用意した食事にもほとんど手を付けず、口数も少ない。ハルカが気遣って話し掛けても、心ここにあらずという顔で生返事をするばかりだ。 食事の片付けを終えて風呂に湯を張ってから、俺たちは三角形を描くようにローテーブルを囲んでリビングに座り込んだ。ミチルは唇を噛み締めながら、誰とも視線を合わせまいとするかのように俯いている。 「ミチル、どうしたの」 ハルカが優しい声で尋ねれば、ミチルはゆっくりとかぶりを振る。 その思いつめた顔を覗き込みながら、ハルカは諭すように語りかけていった。 「明日で僕たちはお別れだよ。だから、思ってることをちゃんと伝えて」 そうだ。ミチルとこうして過ごすのは、今夜が最後になる。 そして俺はふと気づく。ハルカが言っていた俺たちの四日間も、明日で最後だということに。 四日間だけの恋人だなんて、そんなお伽話のようなシステムを俺は当然信じちゃいない。 このわずかな期間を一緒に過ごしているうちに、俺はこのきれいな同性の恋人を信じがたいほどに愛おしく想うようになっていた。 四日間だけでいいと割り切れるぐらいなら、もうとっくに手離している。ハルカが俺の前からいなくなるなんて考えられない。 けれど、俺はハルカ自身のことをまだ何も知らない。だからどれだけ愛情を伝えようが、身体を繋いだ事実があろうが、俺たちはひどく曖昧で不確かな関係のままだ。 失った初恋の幻影のように俺の前に突如現われた美しいハルカは、明日になれば忽然と消えてしまうのかもしれない。 視線を落としたまま押し黙っていたミチルは、やがて色の薄い唇を小刻みに震わせて開く。 「……お父さんは、絶対に僕を追いかけてくる」 胸の内に押し寄せる恐怖の欠片が溢れ出てこぼれ出た──そんな声だった。ミチルはひどく怯えていた。 「このままだと、おばあちゃんに迷惑がかかるだけだ。やっぱり僕は行けない」 ミチルが心配していることは、俺が考えていたことでもある。この子は父親の歪んだ愛情を誰よりも肌で感じてきた。自分が異常に執着されていることをよく理解している。その上でこう言っているのだから、その父親は本当に追いかけてくるだろう。 父親が執念の果てにこの子のところへ辿り着けば、ミチルや祖母はそれこそ何をされるかわからない。 「なあ、ミチル。もうひと踏ん張りできるか」 俺がそう問い掛ければ、ミチルは何度か瞬きをした後にゆっくりと顔を上げる。 目と目が合った。あどけない、まだ十六歳の子どもだ。けれど俺の話をきちんと聞こうとしているのがわかる。 「難しい話じゃない。父親が、お前を追ってくることができないようにするんだ」 「そんなこと……」 できるの? という語尾が淡く消えていったのは、俺が本気で言っていることを感じたからかもしれない。 「お前の父親の身柄を拘束すればいい。残念ながら、一生というわけにはいかない。せいぜい何年かというところだろうが、それでもその間にお前はもっと成長する。今より身体も強くなるし、自分で責任を取れる年になる」 「拘束、って……」 「お前、さっき十六歳だって言ってたけど、間違いないか」 そう問い掛ければ、ミチルは萎縮するかのように身を竦めた。 「嘘をついてたことを咎めてるわけじゃない。大事なことだから、確認してるんだ」 知らず知らずのうちに詰問口調になっていることに気づく。少しでもこの昂ぶる気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をした。自分でも興奮しているのがわかったし、なぜ興奮してるのかもわかっていた。こんなにも胸がざわめいている理由は、ひとつしかない。 もう二度と戻らないと決めたはずなのに、ここへ来て刑事の血が騒ぎ出しているからだ。

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