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act.7 Angelic Kiss 〜 the 4th day 8

『知ってた? 赤ちゃんって、お腹の中にいる時も耳が聞こえてるんだって。その話を聞いて、もし私に赤ちゃんができたら、お腹にいる時からいっぱい声を掛けてあげられたらいいなと思ったの。未来を想像すると自分がどうしてるのかもわからないし不安になるけど、そういうことを考えると楽しくなってくる』 キラキラした瞳で彼女は無邪気にそんなことを言っていた。 交わることのない、遠い世界に住む人。こんなに近いのに、二人の間には手が届かないぐらいの距離が存在する。 『だから、男の子でも女の子でもおかしくない名前にしたいなと思って』 嬉しそうに笑う彼女を俺はそっと見つめる。 この視線が彼女にとって疎ましいものでなければいい。ただ、それだけでじゅうぶんだと思いたい。 お腹をさすりながらこれから生まれてくる赤ん坊に話し掛ける彼女の姿が、容易に想像できた。それはなんて幸せそうな光景なんだろう。 その隣に浮かぶぼんやりとしたシルエットは、彼女と共に人生を歩む誰かのものだ。 どんな男なのか俺には想像もつかないけれど、それが俺ではないことは確かだった。 『朋ちゃんは本当に子どもが好きなんだね』 『そうね、子どもは好きよ。教育実習に行ったときも、園児はみんなかわいかった。どの子も一生懸命で健気で、本当に天使みたい』 ゆっくりと視線を移動させて、彼女は明るい窓の外を眺めた。それを追いかけるように俺は同じ方向へと顔を向ける。 よく磨き上げられたガラスの向こう側で、まだ小学校にも上がっていないような年頃の女の子が母親と手を繋いで歩いている光景が目に入った。 女の子は好奇心旺盛にキョロキョロと周りを見ながら、母親に何かを話しかけている。愛らしい無垢な笑顔が眩しい。 もう一度正面を向くと、彼女はその親子をまだじっと見つめていた。少女の面差しを残した年上の人は、窓から降り注ぐ陽射しを浴びて美しく煌めく。 この人はいつか自分に訪れる将来を思い描いているんだろうか。 目を細めながら、俺はぼんやりと数年後の未来を思い描こうとする。 いつか彼女は運命の相手と結婚し、子どもを授かるに違いない。子どもが大好きな彼女は、きっと天使のような子を生むだろう。 胸の痛みを覚えるけれど、幸せそうな彼女の姿はなぜだか容易に想像できた。 一年前に振られてからも、俺は初恋相手に対する想いを昇華できないままでいた。 身代わりにするように学校の内外で彼女を作っては、何とか気持ちを紛らせて毎日を過ごす。虚しい代償行為だった。最低な男だと言われても仕方ない。俺と付き合う女の子は皆、俺が本気じゃないことに気づき、やがて悲しい顔をして離れていく。 朋ちゃんとは二人でよく学校の近くで会っていたから、校内で彼女と俺の関係について噂が立ったこともあった。その度に俺は彼女の名誉を守ろうとして、親族なんだと説明を繰り返した。 宝石のようなひとときを、誰にも邪魔されたくなかったからだ。 そうして緩やかに続いていた彼女と俺との関係は、突如変調を来たす。 ある日突然、彼女と連絡が取れなくなったんだ。 十回目のコールが聞こえたところで諦めてボタンを押す。習慣になった毎晩一回の電話に、今夜も彼女は応えてくれない。 あの透き通るような響きの声を聞くことができない日々が続いていた。 バイトにでも行ってるんだろう。いや、試験前だから大学で勉強をしていて、だから帰りが遅くなっているのかもしれない。 鳴り続ける呼出音に、いろんな理由をこじつけては自分を落ち着かせようとした。けれど、ぼんやりとした嫌な予感は日に日に色濃くなっていった。 今までこれだけ長い間連絡が取れなかったことはなかった。この頃彼女がふとした折に思い詰めた表情をしていることにも気づいていた。 もしかすると、彼女の身に何かあったんじゃないか。 居ても立っても居られないほど気持ちは逸るのに、家へ押しかける度胸もない。 俺のことを避けているのかもしれない。だけど、嫌がられても彼女の無事だけは確認したかった。 焦燥感に駆られた俺は、思い切ってそれまで行ったことのなかった彼女のアルバイト先まで足を運んだ。 彼女は学校から電車で二駅離れたところにある店で週に四日程働いていた。夜はダイニングバーになるような、当時にしては小洒落たカフェだ。 店内に足を踏み入れて見渡し、彼女がいないことを確認した俺は、大学生風の女性店員を捕まえてありのままを打ち明けた。 俺が羽山朋未の親戚であること。彼女と連絡がつかなくなって心配していること。 不審がられると思ったけれど、その人は拍子抜けするぐらいあっさりと俺を信用して、真摯に耳を傾けてくれた。どうやらアルバイトの合間に彼女から俺の話を聞いたことがあったらしい。 今みたいに個人情報にうるさい時代じゃなかったのもあって、俺の欲しかった情報は容易く手に入った。 『朋未、このお店を辞めたのよ。もう一週間になるかな。大学も辞めて引っ越すんだって。どこへ行くのか訊いたけど、はっきりと決まればまた連絡するって言われて教えてもらえなかったな。深刻な感じじゃなかったし、そこまで追及しなかったけどね』 今まで必死に繋いできた糸が知らないうちに切れていたことに気づいて、俺は愕然とした。大切にしていたものの全てを失ったと思った。 俺はすぐに店を飛び出して駅まで駆けて、ホームに来た電車に飛び乗った。学校の方向まで戻るためだ。 彼女が独り暮らしをしている家に向かおうと思った。もうそこにはいないかもしれない。それでも、行かずにはいられなかった。 電車を降りて駅を出ると、曇り空から雨が降り出していた。 頬にあたるぬるい感覚が、まるで涙のようだ。 初めはポツリポツリとアスファルトに染みを作る程度だったのに、次第に雨足が強くなっていく。 俺は傘を調達することもなく、降りしきる大粒の雨に濡れそぼりながら、ただひたすらに走り続けた。

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