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act.7 Angelic Kiss 〜 the 4th day 9

羽山朋未の住んでいるハイツは、こじんまりとした三階建ての建物だった。 閑静な住宅街に、ベージュ色の外壁が淡く光を放つようにぼんやりと周りから浮き上がっている。 降り注ぐ雨の灰色に染まる景色の中、俺にはその建物だけが仄かに輝いて見えた。 階段の手摺は鈍色のアイアンフレームだ。掌に触れた冷たい感触に、もう二度と彼女と会えないんじゃないかという不安が募る。 彼女の家は俺の通う高校から歩いて行ける距離にあった。彼女との関係を壊したくなくて、それまであえてここへは来ないようにしてきた。足を運んだことはなくても彼女の話からだいたいの場所は知っていたし、この辺りを通りがかったこともあったから、外観の特徴でこの建物だろうと勘付いていた。 入口の集合ポストに付いた表札を確認して、二階の一室に探していた『羽山』の文字を見つけることができた。 律儀に表札が付いているのは、彼女がまだここに住んでいる証だと心が逸った。 狭いエントランスを通り、足早に内階段を登っていく。 シャツが身体に貼りつく感覚が煩わしい。髪から滴り落ちる雫の鬱陶しさに、肩で息をしながら腕で乱暴に額を拭った。 目当ての部屋の前で足を止める。玄関扉の横にある窓ガラスの向こうは暗かった。明かりが灯っていないということは、やはり不在なのかもしれない。 呼吸を整えながら、思い切ってインターホンを鳴らしてみる。 初夏だというのに濡れた身体は冷えてしまっていた。けれど指が震えているのは、けっして寒さのせいだけじゃなかった。 『朋ちゃん』 応答がない。それでも呼びかけてみる。 もう一度ボタンを押して、彼女の名前を口にする。息を潜めてじっと待っているうちに、中で微かに人の動く気配がした。 衣摺れと小さな足音に息を呑む。 カチャリ、と受話器を上げる音が聞こえた。縋る思いでインターホンに耳を寄せる。 『……はい』 か細い声だ。けれど、紛れもなく彼女の声だった。 『朋ちゃん、俺だよ。突然押しかけてごめん』 よかった、いるんだ。彼女はここにいる。 そうわかっただけで、もう胸がいっぱいになっていた。けれど次の瞬間、顔を見たくて堪らなくなる。 会って、話をして、それから。 ──それから? 『拓磨くん?』 様子を窺うようにゆっくりと扉が開く。そこから覗いた懐かしい顔は頭の中の彼女と寸分違わずきれいだった。びっくりしたような丸い目をしている。 こうして再会できたことに安堵して、俺はもう泣きそうになっていた。前髪から滴り落ちる雫が、視界を白く濁らせる。 『ずぶ濡れじゃない。入って』 せっかくそう言ってくれているのに、俺はその場に突っ立ったままでいた。彼女とやっと会えた。けれどこの先、どうすればいいのかがわからないことに気づいたんだ。 『拓磨くん』 少し困った顔をした彼女に軽く腕を取られて、俺は引き寄せられるように玄関に入ってしまっていた。 制服のシャツが肌にべったりと貼りついて、身体が冷たくなっている。それでもさすがにそこでシャワーを浴びたいと申し出る雰囲気じゃなかったし、もちろんそんな気分にもなれなかった。 ふんわりと優しく毛羽立つバスタオルを渡されてひとまず頭を拭く。通されるままに足を踏み入れた部屋は小さなワンルームだった。細い指が扉の横にあるスイッチを押すと、蛍光灯がふわりと室内を照らし出す。 灯りが消えていたのは、これからどこかへ出かけようとしていたからかもしれない。それとも、暗い空間で一人何かを思い詰めていたのだろうか。 女の子の部屋にしてはやけに殺風景だなと思う。けれど、瞬時に気づく。 生活感と引き換えに、室内の片隅には大きな段ボールが三箱積まれていた。そこから醸し出される異質な空気に目が釘付けになる。 『それはね、今引っ越しの準備をしてて……』 そこに留まったままの俺の視線の先を追いかけて、彼女は小さな声でそう呟いた。語尾が続かないのは、事実を告げることに罪悪感があったのかもしれない。 やっぱり、どこかへ行くつもりなんだ。彼女がここを去ろうとしていることもさることながら、それを知らされていないことが何よりもショックだった。 『どこに行くの?』 やっとのことでそう口にしたけれど、彼女は黙り込んだまま視線を落として俯く。俺に行き先を知らせる気はないのだろう。 アルバイト先を辞めて、下宿先を出る。実家に帰るという雰囲気ではないことは、見て取れた。 『大学は? まさか、辞めないよね』 そう詰問しながらも、俺は薄々気づいていた。彼女が全てを捨ててどこかへ行ってしまうつもりだということに。 『幼稚園の先生になるんじゃなかったっけ』 俺の言葉に彼女は何も答えず、ただ視線を逸らして唇を噛み締めていた。あからさまな拒絶の態度に胸がキリキリと痛む。 そんな顔をさせたくてここへ来たわけじゃないんだ。ただ、大好きな人に会いたかった。必死に繋いできたこの細い糸が切れてしまうことに堪えられなかったんだ。 『朋ちゃん、何か言って。頼むから』 震える声を押さえつけるように小声でそう言えば、彼女の長い睫毛がゆっくりと上向く。 ようやく瞳が合って、きれいな桜色の唇から、言葉が紡ぎ出される。 『こうするしかないのよ。もう、決めたの』 その凛とした眼差しに迷いは見えない。 何を決めたのか。知らされなくても、わかることはあった。 彼女は全てを捨てて俺の前から消えてしまうということだ。 そして、それはきっと一人でじゃない。誰かが彼女をそうさせているんだ。 『──朋ちゃん』 名前を呼ぶと、ハッとした表情で俺を見つめる。この悲壮な状況でも、その顔は天使みたいにきれいだった。 どれだけ近づいても、けっして手が届くことのない美しい人。 俺が大切にしていたこの関係は、もはや切れてしまってる。それは揺るぐことのない事実だった。 それなら、せめて。 『俺、今でも朋ちゃんのことが好きだよ』 腕を伸ばして華奢な手首を取る。驚いて目を見開く彼女の顔が至近距離に見えた。そのまま抱きすくめて強引に唇を奪う。 柔らかな感触に何度も角度を変えて唇を押しつける。胸の辺りを必死に押し返そうとする手の力は、次第に弱くなっていった。 小さな頭を支えながら硬いフローリングに押し倒せば、鼻先が触れ合う距離で視線が絡まる。 涙を湛えて潤んだその瞳が何を思うのか。俺にはわかるすべもない。 どれだけ唇を重ねても、布越しに柔らかな肌を弄っても、もう彼女は抵抗しなかった。糸の切れた操り人形のように、だらりと脱力していた。

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