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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 1st day 3

見上げれば薄紅色の花びらがひとひら、舞い落ちてきていた。特徴のあるその形を目で追いかけながら、心がざわめき立つ。 今は、その季節ではないはずなのに。 そう思った途端、僕の立つ世界がぐるりと反転する。 後から後から、風に吹かれては雪のように落ちてくる桜の花弁。 まばゆい陽だまりの向こうに、手を繋ぐ二つの人影が見えた。 ふわりと鼻を掠めるのは、暖かな季節の匂い。 駆け抜くように吹いた風の後、耳元で聞こえるのは。 『ああ、きれいだね』 懐かしい、艶やかな声。 『本当だ、きれい……』 レンガ敷きの道を彩る桜並木を眺めながら感嘆の声を漏らす僕に、隣にいる人は優しく微笑む。陽の光を浴びたその顔は、健康そうでとても美しかった。 『飛鳥、もっとこっちにおいで』 繋いでいる手を引き寄せられて、ほんの少し空いていた距離を詰めれば、髪にふわりと唇が寄せられる。 『いい匂いだ』 耳元でそっと囁かれて、僕はドクドクと高鳴る心臓の音を抑えるのに必死だった。 『皆が見てるよ』 『知ってる』 含みを持たせた笑みが僕の体温を上げていく。付き合ってから初めて迎える最初の春、僕はまだこの関係に浮き足立っていた。 幼い頃からずっと近くにいたのに、こんなに人目を憚らず行動する人だということを知らなかった。ひとつひとつの言動に愛されていることを実感できて、どこかくすぐったい。 所有欲を満たし合うように人前で一緒にいるのは、側から見れば滑稽なのかもしれない。けれど、男同士だからと誰の目をも恐れることはないのだと、この人は身をもって僕に教えてくれているような気もしていた。 光を反射してクリスタルガラスのように輝く、鳶色の瞳。その中に自分を映してもらえていることがどれだけ尊いかを、僕はちゃんと知っている。 『大好きだよ、沙生』 何度言葉にしても足りないぐらいの想いを小さな声でそっと告げれば、そよぐ風を受けながら愛おしい人は穏やかな眼差しを注いでくれる。 この時間が、永遠に続けばいい。 僕は沙生と微笑みを交わしながら、パステルカラーのゲートを潜り抜ける。 風が吹く度に桜吹雪の舞う広い園内は、ただ歩いているだけでも楽しめるように造られていた。 僕たちはできたばかりのジェットコースターに乗り、ボートで川下りをした。小さな植物園に入って色鮮やかな花を楽しみ、花に誘われて飛んできた虫を観察した。小さな子どもから大人まで幅広い年代が楽しめるように工夫されたテーマパークは、数年振りに来た僕たちが二人の時間を過ごすのに十分な場所だった。 広場のベンチに隣り合って腰掛けながら、売店で買ったドリンクで喉の渇きを潤す。じっと僕を見つめる眼差しに気づいて、鼓動がまた大きな音を立てて鳴った。 沙生と一緒にいるだけで、時間の流れはとても速くなる。それは、鼓動の刻む速度が上がるからかもしれない。 『飛鳥は、どうしてここがいいって言ったの?』 『何となく、来たかっただけなんだけど』 『うん』 どうしてもここに来なければならなかったということはない。けれどその先を促すような相槌に他愛もない理由が僕の口を突いて出る。 『子どもの頃、よくここに来たのをふと思い出して。すごく懐かしくなったんだ』 『……ああ』 何かを思い出したのだろう。沙生の唇から溜息のような感嘆の声が漏れた。 『そうだね』 あれは、僕が小学校三年生の頃だ。独り暮らしをしている侑が実家に帰って来て、僕と瑠衣をこの遊園地へと遊びに連れて行ってくれることになった。 侑と沙生と、瑠衣と僕。 その頃既に三歳上の姉は沙生のことが大好きだった。園内を歩きながらここぞとばかりに瑠衣が沙生の腕を組みに行くのを、僕は後ろからただぼんやりと眺めていた。 小学校高学年の女の子は、同年代の男と比べると随分成熟していると思う。瑠衣にとって学校にいる同級生は物足りなかったのだろう。 沙生は当時高校受験を控えていて、その頃からもう大人びていたし、眩しいぐらいにきれいだった。 そんな二人を見て覚える胸の痛みを、当時の僕は静かに我慢しなければならなかった。沙生のことが好きだという自覚はあったけれど、それがどの種の好意かがわかるほどの年齢にも至っていなかった。 僕はいつから沙生に恋をしていたんだろう。 ─── 飛鳥。 くしゃりと髪が乱れるほど頭を撫でられて見上げれば、侑が優しく僕の肩を引き寄せてくれた。 ─── ほら、こっちへおいで。 侑ってお父さんみたいだね。 顔も知らない父を引き合いに出せば、苦笑しながらもう一度大きな手で僕の頭を撫でてくれた。 侑は今でこそトレード会社を経営しているから多少時間の融通は利くようだけれど、あの頃はまだ会社勤めをしていた。思えば少ない休みを僕たちと過ごすことに費やして、本当によかったのだろうかと申し訳なく思う。 あの頃から侑は気づいていたのだろう。僕がこうして沙生に特別な感情を抱いていることに。 幼い頃の思い出を反芻しながら、僕は頭に浮かんだ疑問をそのまま口にしてみる。 『沙生ってさ』 『うん』 『僕のことを好きになってくれたのは、いつ?』 思い切って訊いてみたけれど、沙生は一瞬目を見開いて答えに詰まり、それからゆっくりと顔を綻ばせた。 『さあ、いつかな』 『はぐらかしてる?』 『違うよ』 きれいな手が伸びてきて僕の前髪に触れる。目の前に差し出された指先には小さな花弁が付いていた。 『いつからか、本当にわからないんだ』 ひとひらの風が薄紅色の欠片を攫っていく。他の花弁に紛れて空に舞うそれを、僕達は同時に目で追いかけていた。

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