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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 1st day 4

ふと耳に届いた甲高い泣き声に、同時に振り返る。小さな子どもが一人で遠くからこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。 まだ小学校に行く年齢にも満たないような長い髪の女の子が、声をあげて泣きながらふらふらと彷徨っている。 『どうしたの』 僕よりも少し先に立ち上がった沙生が、素早くその子へと近づいていく。大粒の涙をこぼしながら泣きじゃくる女の子に優しく声を掛けた。 『迷子かな。おうちの人は?』 『いなく、なっ、た』 屈み込んで彼女と同じ目線になった沙生は、しゃくりあげる度に上下する頭を何度も撫でながら穏やかな眼差しを注ぐ。 『大丈夫だよ。必ず見つかるから。そうだ、ここの妖精さんにお願いしようか』 『エリシフ……? 』 小さな声に頷いて、沙生が視線を遠くへと移す。その先には、この遊園地を代表するマスコットキャラクターがいた。 桜色の服を着た妖精は、辺りの子ども達に手を振りながらゆっくりと歩み寄ってくる。 エリシフ。そうだ、そんな名だった。 沙生はその子と手を繋ぎながら春の色を纏った妖精に近づき、僕もあとから二人を追いかけていく。エリシフの傍まで来た沙生は、密談をするようにその大きな頭にそっと顔を近づけた。 何を話しているかはわからなかったけれど、妖精が首を縦に振るのが見えた。交渉は成立したようだ。 『じゃあね』 エリシフと手を繋ぎ直して泣き止んだ女の子が遠慮がちに手を振る。 『おにいちゃん、バイバイ』 目鼻立ちがはっきりとした、かわいらしい顔の子だ。ふわふわとした髪が風に揺れて舞っている。目の辺りがどことなく沙生に似ている気がして、思わずどきりとした。 妖精と女の子の後ろ姿を見送っていると、胸の痛みを覚えてそっと視線を逸らしてしまう。 『どうしたの、飛鳥』 『───ううん』 かぶりを振って顔を上げれば怪訝そうな表情の沙生が至近距離で僕を見下ろしていた。 温かな掌が僕の頬に触れる。交じり合う視線の先で、クリスタルガラスのように輝く鳶色の瞳が僕を映し出していた。さらさらと風にそよぐ髪の隙間から昼の陽射しがこぼれ落ちる。 ああ、何てきれいなんだろう。 『沙生って、子どもが好きなんだなあと思って』 胸に抱いているわだかまりをほんの少し吐き出せば、沙生は途端に表情を緩めた。 『ああ……ヤキモチ?』 そう口にするその顔は思いの外嬉しそうで、釣られて僕まで笑ってしまう。 『それもあるけど、そうじゃなくて』 沙生がこうして時々小さな子に優しく接して微笑みを見せる度に、僕の胸はチクリと痛みを覚える。 結婚して子どもが生まれて、慈しみながら我が子を育て、成長を見守る。 僕といる限り、沙生には多くの人が迎えるそんな人生の局面は訪れない。だから僕は、幸せなはずなのに時々無性に不安になる。 こうして傍にいることで、僕は沙生の未来を少しずつ蝕んでいるのかもしれない。 『だって、僕と一緒にいたら沙生には子どもができないよ』 それは僕にとって口に出すにはかなり勇気のいる言葉だった。やっとのことでそう言ったのに、沙生は一瞬目を見開いて、それから小さな溜息をついた。 『飛鳥って、時々本当に馬鹿だなと思う』 『どうして?』 『わからない?』 質問を質問で返されて、僕は黙り込む。きれいな顔は確かに笑っているけど、その眼差しは真剣だった。もしかしたら、怒っているのかもしれないと思うほどに。 『飛鳥、もしも俺といない方が幸せになれるとしたらどうする?』 問われている意図がよくわからなかった。沙生といられることが僕の幸せで、沙生がいない方がいいだなんて絶対に考えられない。 沙生のいない未来なんて、僕にはないのだから。 『沙生がいなければ、意味がないよ。どんなことがあっても僕は沙生と一緒にいる』 『情熱的なプロポーズの言葉だね』 そう返す沙生の顔にはもういつもの穏やかな微笑みが浮かんでいて、僕は照れ臭さを覚えながらも少し安堵する。 『飛鳥はもっと自信を持った方がいい』 その言葉を乗せるように、ひとひらの風が吹いた。 『俺も同じ気持ちでいることを、ちゃんとわかっていてほしい。飛鳥じゃないと駄目なんだ。代わりはいらない』 真っ直ぐに僕を見てそう言う沙生から目を逸らせなかった。 大好きな人が同じように想ってくれるなんて、これは神様が与えてくれた奇跡なのだろう。 繋いだ僕の手を引いて、沙生は導くように歩き出した。 こうして一緒に歩いたり立ち止まったりしながら、景色の移り変わりを眺めるだけでも僕は十分過ぎるぐらいに嬉しいんだ。 そうだ、まだ時間はたくさんある。ひとつひとつ想い出を積み重ねていけば、それは僕たちを強く結びつける記憶に変わるだろう。 沙生といることができれば、他には何もいらない。 『僕の方が大好きだよ』 そっとそう告げれば沙生は少し眉を上げて、悪戯っ子のような笑みを見せた。 『そう思っていればいいよ』 『え、何でそんな言い方なの』 だって本当のことだよ。本当に僕の方が大好きなんだ。 続けたはずの言葉は、一際強い風に吹かれて沙生に届かなかったのかもしれない。 暖かな陽射しの下、一面に落ちている桜の花弁を踏みしめながら、僕たちは寄り添い合って迷いもなく歩みを進めていく。 不意に天と地が反転するかのように、身体がふわりと宙に浮く感覚がした。 軽い目眩はすぐに消えて、気がつけば僕は世界を俯瞰していた。 だんだん小さくなる二つのシルエットをぼんやりと眺めながら、湖の水面にゆらりと視線を移す。 幻の春が見せたのは、愛おしい陽炎。 懐かしい匂いを残しながら、ゆっくりと立ち昇り消えてしまう。 ああ、サキ。一緒にこの小径を歩いたね。

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