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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 2nd day 7

「ルイからサキの子どもができたと聞いたときは本当に悲しくて、どうしてこんなことになってしまったんだろうと思った。僕にはサキの生命を奪うことしかできなかった。ルイのようにサキの生命を繋ぐことは叶わない。サキに対して何もしてあげられなかった自分自身に失望したし、虚しくて仕方がなかった。それでも、不思議とサキの子に対して生まれてきてほしくないとは思わなかったんだ」 僕はどうしてミツキにこんなことを話しているのだろう。 それはきっと、ユウにさえ伝えたことはないこの気持ちを、ミツキになら口にしても赦される気がしているからだ。 「アスカはちゃんと前を向いてるね。俺が思ってたよりずっと」 不意にそんなことを言われる。階段を一歩一歩降りていくペースが少し落ちて、僕たちはこの時間を惜しむようにゆっくりと足を運んでいた。 「今思えば、あの時が一番辛かった。そうじゃないか?」 ああ、そうかもしれない。確かに、あの時の僕は周りが何も見えないぐらいに混乱していた。この世界にたった一人取り残されてしまった気持ちになって、ただ死んでしまいたいと願い続けた。 無闇に命を捧げたところで、犯した過ちを償うことなどできないのに。 「そうだね」 短く肯定の返事をする。時間の流れが停滞しているかのように感じた。 もしもこのまま時が止まってしまったら──そんなありもしない想像をしようとして中断する。 繋いだ手のぬくもりは、僕にはあまりにも過分な束の間の幸福。 「そう思えるなら、すごいと思うよ。少しずつでも上がってるんだから」 「上がってる?」 「そう、一番深い悲しみの場所から上昇してる。アスカはもうそこにはいないんだ。これ以上沈むことはない。俺はそう思う」 深く暗い水の底から見上げていた、キラキラと輝く太陽のある世界。 手を伸ばしてもけっして届かないと思っていたけれど、いつの間にか僕がそこへ近づいているのだとしたら。 それは、なんて美しい夢なのだろう。 すれ違う人々が時折僕たちを振り返り、こちらを見ながら足を進めていく。 けれどミツキはそんなことなど構わずに僕の手を握りしめる。繋いだ手の温度は次第にどちらのものかわからなくなっていく。 サキを失った世界で過ごすことは、僕にとって耐え難く辛かった。けれど、ミツキとの四日間を終えて別れを告げたあの夜も、それから費やした曖昧で愚かな時間も、どちらも本当に苦しかった。それが僕の自ら選んだことだったにもかかわらず。 そんなことを言えば、ミツキは身勝手だと僕を責めるだろうか。 「夢みたいだな」 ぽつりとそう呟いて、ミツキは僕の手を握り返した。太陽の陽射しに目を細めながら、僕は小さく頷く。 本当だ。まるで夢のようだ。 心の中でそう返しながら、僕たちは眩しい光の中を歩き続けた。 パノラマ水槽を悠々と泳ぐ魚の群れを、ぼんやりと眺める。 水の中を泳ぐ魚は気持ちよさそうで、狭いところに閉じ込められているはずなのに、なせだか自由に見えた。 密やかなお参りをした後、僕たちは水族館に足を運んでいた。以前ミツキやアユムくんと一緒に来たのと同じところだ。 閉館一時間前ともなると、週末の混雑は随分緩和されていた。 青い水の中を所狭しと行き交う生物を、僕たちはガラスを隔てたこちら側から見つめ続ける。 手を繋ぐことに対する戸惑いには幾分か慣れたものの、人を避ける拍子に時折ミツキの肩が触れて、その度に心臓が小さく跳ね上がる。意識し過ぎているのはわかっていても、コントロールすることができない。 こんなのは、何でもないことのはずなのに。 小さく溜息をつきながら、僕は思ったことを口にしてみる。 「ガラスの向こう側では、魚が僕たちを観察してるのかもしれないね」 そう言えば、ミツキはちょっと目を見開いて僕を見下ろす。 「今日も人間がたくさんいるな、とか思われてたり?」 「うん、そう」 「案外そうかのかもな」 水槽の中にある世界と、僕たちの住む世界。どちらもきちんと成り立っていて、向こうからすれば僕たちはまるで関係のないところにいる異星人のようなものなのではないかとも思う。 目の前を大きな白い影がするりと上昇していった。その姿に合わせて視線を滑らせる。よく見ると本当に不思議な形だと思う。薄い体でひらひらと伸びやかに泳ぐ姿が愛らしい。 「エイの顔って、よく見るとかわいいよな」 同じように視線で追いかけながらミツキが呟くから、僕はつい口を挟んでしまう。 「あれ、目じゃないんだよ」 「え?」 「よく間違えられるけど、鼻なんだって。どちらにしてもかわいいけどね」 腹側にある目のように見えるものは実は鼻孔で、サメとエイは元は同じ一族だ。 そんなことをかつて僕に教えてくれたのは、サキだった。

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