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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 2nd day 8
学校が休みの日に、こうしてサキと水族館に来ることがあった。
大学で遺伝子工学を研究していたサキは、子どもの頃から生き物全般がとても好きだった。時折僕にいろんなことを教えてくれながら、ゆっくりとひとつひとつの水槽を眺めていく。静かに青く揺らぐ空間を、僕達は呼吸を重ね合うように観察していた。
瞼を閉じて思い浮かべる。水槽を見つめる六歳上の幼馴染みはキラキラと目を輝かせていて、まるで好奇心旺盛な子どものようだった。
『沙生って本当に生き物が好きなんだね』
『うん、でも』
言葉を区切って、そっと口角を上げる。秘密を含んだ微笑みに、僕は肩を寄せてその先を促した。
『でも、何? ちゃんと言って』
『飛鳥を好きな気持ちには敵わないけどねって言おうとしたんだけど、比べたら気を悪くするかと思って』
鳶色の瞳に淡く滲む光が、ゆらりと甘く揺らめいた。
『飛鳥のことが大好きだよ』
ああ。あれはまだサキが元気な時のことだ。
僕はその奇跡のような言葉を、ただ喜びながらじっと嚙みしめることしかできなかった。それがいかに尊いものであるかを知らないまま。
胸がゆっくりと締めつけられていく痛みに堪え切れず目を開ける。
視界に広がるのは、青く透き通る水の空間。ここにあるのは人工的な生態系だ。けれどこの中で小さな世界はきちんと営まれ、成立している。
胸の内側に詰まった痛みを吐き出すようにそっと息を漏らす。ふと隣を見れば、ミツキは何も言わずただ僕を見下ろしていた。嘘もごまかしも見逃すことのない、真摯な瞳で。
確かなものに縋りたくて、繋いだ手に力をこめる。握り返された手の温度に安堵して、そんな自分にまた嫌悪する。
受け入れることもできないのに、僕はいつもミツキを都合よく利用してしまう。
「ちゃんと、いるから」
耳元に響くトーンはどこまでも穏やかだ。そう、これは現実だ。僕の虚ろな気持ちを落ち着かせる優しさを含んだ、実在する人の声。
「俺にできることなら、何だってしてやるよ。アスカが望むことをね」
自然と僕たちは顔を見合わせる。真っ直ぐに注ぎ込まれる眼差しが眩しくて俯いた。
順路に沿って足を進めていくうちに、暗いトンネルに差し掛かる。
今過ごしているのは、僕の四日間。
二人並んで暗い通路の中へと吸い込まれるように歩んでいく。胎内へ還るかのような錯覚に軽い眩暈を覚えた。
太古の海へと時を遡る。手を繋いでいれば、はぐれずにいけるだろうか。
ああ、これは時間を行き来する旅路なのかもしれない。
順路の最後に青い光が見えた。立ち並ぶ水槽に目を奪われる。
幻想的に浮かび上がる、柔らかなガラス細工。透き通った体でふわふわと漂う美しいこの生き物が、僕は昔からとても好きだった。
「クラゲって、泳いでるうちに足が絡んでもちゃんと解けるんだよな」
円筒の形をした水槽で、三匹のギヤマンクラゲが長い足を優雅にひらめかせながら泳いでいた。
ライトの加減でその体は発光しているように見える。もしかすると僕が知らないだけで、海の中でもこうして輝いているのかもしれない。人知れず咲く可憐な花のように。
「歩と三人でここへ来た時さ」
光の筋が繊細に揺れるのを見つめたまま、ミツキはそっと言葉を置くように僕に語り掛ける。
「アスカがクラゲをじっと見てたなあと思って。何か想い出でもあった?」
虹色に煌めく生物。生命の輝きは眩しくて美しい。長い長い時間の中で巡り会える儚いその一瞬をこの生物と共有できることが、僕には誇らしく思えた。
「……うん」
生命が奇跡の連鎖なのだと、僕に教えてくれたのは──。
「想い出してたんだ」
鳶色の瞳を持つ、かけがえのない幼馴染みだった。
『飛鳥はクラゲが好きだね』
沙生はそう言って繋いだ手を握りしめた。この温もりがいつも僕を安堵させてくれる。
『うん、だって、きれいだから』
少し遠出をして立ち寄った水族館は、こじんまりとしているけれど僕たちにはちょうどいい規模の施設だった。沙生と僕は人混みが得意ではないし、混雑したところでは思うように鑑賞することができないからだ。
巡り巡った最後には、ライトアップされてキラキラと光るこの生き物が僕たちを待っていた。室内に並ぶ円柱の水槽には、細やかな水泡が立ち昇る。
海に漂う宝石のようだ。煌めきを纏いながら揺れ動く長い足を、僕は静かに呼吸しながら見つめていた。
『確かにきれいだけど』
沙生の声が耳元をくすぐる。距離の近さに振り向けば、間近で僕を見る優しい眼差しが目に飛び込んできた。
『クラゲに見惚れる飛鳥が、すごくきれいだなと思う』
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