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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 3rd day 2

コーヒーメーカーから優しい香りが立ち昇る。大きなマグカップに小鍋で軽く温めたミルクとコーヒーを注いで、目の前のテーブルにそっと置きながらミツキは軽く微笑んだ。 「どうぞ」 カップを手に取って一口飲むと、まろやかな味わいが広がる。優しい味は、子どもの頃に飲んだホットミルクを思い出す。 幼馴染みと肩を並べて飲んだあの味に似ている。 隣に住んでいたもうひとりの母とも言える人に作ってもらっていた、ほんのりと甘い飲み物。寒い冬の日に、リビングのソファに座って飲むホットミルクが僕はとても好きだった。 『こぼさないようにね、飛鳥』 こくりと頷いて、まろやかな液体をそっと舌に乗せる。ほんの小さな頃、熱々のホットミルクで口の中を火傷したことがあった。その後しばらくの間は舌が痛くて食事に支障を来したことを、よく憶えていた。 優しい味は、僕の奥底に眠っている記憶を呼び覚ます。 『……沙生』 顔を上げれば六歳上の幼馴染みはいつも穏やかな眼差しで僕を見守ってくれていた。 光が当たればクリスタルガラスのように煌めく、この世で最も美しい鳶色の瞳。 『大きくなったら何になりたい?』 来春高校受験を迎える沙生は、美しく聡明な中学生だ。理系が得意だけれど、中でも生物に興味があって、遺伝子のことが書かれた文献を探して読むのが楽しいと言っていた。沙生の部屋には生物学に関する難しそうな本がたくさん並んでいる。 沙生はよく生物について色々なことを教えてくれた。けれど僕は、沙生の話してくれるプラナリアの実物を見るのがどうしても苦手だった。あのナメクジにも似た生き物が、胴体を切れば切った分だけ増えることが、小学生の僕には怖くて仕方がなかった。 『大きくなったら? そうだね』 少し考え込むのは、僕に理解できるように言葉を選んでいるのかもしれない。やがて沙生は僕を見つめながらそっと唇を開く。 『人を救える人になりたい』 弾き出された答えを意外に思った。沙生の口からはきっと生物学者や獣医という類の言葉が出てくると思っていたからだ。 『生物学が好きだから、それを活かして人の役に立つ仕事がしたいと思う。まだ具体的には決めてないんだけどね。例えば、研究者になって遺伝子の仕組みを解明することができれば、今の医学では治らない病気を治せるようになるかもしれない』 沙生の言葉は僕にとって難しかったけれど、とても素晴らしいことを言っているのだろうというのはわかった。 『そうやって誰かのためになることが、俺自身のためにもなるんじゃないかと思うことがあるんだ』 『そうなの?』 そう訊き返せば、美しい人は手を伸ばしてさらりと僕の髪を撫でた。 『うん。飛鳥には難しいことを言ったね』 申し訳なさそうに口にして微笑む。沙生にそんな顔をさせていることがひどく不安になった。 『僕が嫌いになった?』 『まさか。大好きだよ』 何気なく紡がれた言葉に僕の気持ちは高揚する。その視界に入ること。言葉を掛けられること。温かな肌に触れること。全てが僕には掛け替えのないものだった。 サキ、今なら僕にもその言葉の意味がわかるよ。 誰かを救うことで、救われる。 サキはそういうことが言いたかったんじゃないかって。 ああ、僕がサキを救うことができれば。 僕がサキを責めることがなければ。 今もあの瞳で僕を見つめてくれていたのかもしれない。 ── 飛鳥、愛してるよ。 「アスカ」 白昼夢から僕を引き戻してくれるのは、穏やかな声。 「……ごめんなさい」 ミツキの凛とした眼差しが、朝の光を滲ませる。この人は僕の見る世界の片隅に潜んでいて、離れたところで全てを見守っている。ふとそんなことを思った。 「大丈夫」 僕に言い聞かせるように口にして、ミツキはこちらへと手を伸ばす。髪に触れる優しい感触に思わず瞼を閉じた。 「アスカ、大丈夫だ」 何が? そう訊くのは意地悪なのかもしれない。けれどミツキは、きっと僕の全てを包括した上で見守ってくれている。そんな気がしてならない。 こくりと頷いて、僕はゆっくりと目を開けた。少しぬるくなったミルクに口を付けると、甘い味わいがもやもやとした心の中に少しずつ沁み渡っていく。 トーストの最後の一欠片を口にしてから、ミツキはふと思い出したように僕を見つめた。 「牛乳は小鍋で温めるのが一番おいしいって、アスカが言ってたんだ。覚えてるか」 「そうだっけ。いつ?」 「確か、大学の食堂で。レンジで温めるのとは味が違うんだって」 記憶の糸をそっと手繰り寄せるけれど、どうしても思い出すことができない。けれど僕自身が今もミルクの味についてそう考えているのは事実だ。だから、ミツキの言っていることは間違いではないのだろう。

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