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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 3rd day 7

『侑に川へ連れて行ってもらったとき、飛鳥がずぶ濡れになって大変だったことがあったわよね』 瑠衣の言葉に子どものときの記憶がまたひとつ蘇る。確か小学校低学年ぐらいの頃だったから、随分前のことだ。 こうして天気のいい日に四人で遊びに行って、川で水遊びをした。そのうち、何を思ったのか瑠衣が車のトランクに積んでいたバケツを持ち出してきた。 その縁いっぱいまで汲んだ水を、瑠衣は僕に向かって見事なコントロールで放り投げた。 下着までぐっしょりと濡れてしまった僕に、見兼ねた侑が着替えを買いに行ってくれたことも憶えている。 『あれは瑠衣が僕に水を掛けたからだったよね』 『そうだった?』 とぼけたように返して、瑠衣がそっと笑う。桜色の唇が可憐に弧を描く様を、自分の姉だというのに見惚れてしまう。 奔放で美しい姉は、これまで誰をも魅了してきたに違いなかった。 『あれはひどかったね』 沙生も会話に入ってきて微笑んだ。最愛の人と過去をこうして振り返ることができるのは、幸せなことだ。想いを胸に秘めながら幼馴染みとして過ごしてきた時間は、無駄ではなかったと思う。 木炭の準備ができたところで、コンロに食材を乗せていく。大きな牛肉の塊に、カットされた野菜。格別においしいのは、一緒に食べているのが気の置けない人達だからだ。 炭火で焼いた食材をひとしきり食べてお腹がいっぱいになったところで、僕達は椅子に座ったままのんびりと風に吹かれていた。 『兄さん、バーの準備はどう?』 沙生が侑にそう問い掛ける。侑が友人と共同経営していたというトレード会社から手を引いて、しばらくが経つ。会社を経営している間に日本の平均的な生涯賃金を遥かに上回る資産を築いた侑は、国内外を放浪しながら、自分好みのバーを開店する準備をしている。そんなことを少し前に聞いたことがあった。 『そうだな。場所はもう借りたんだ。今はそこを改装してる』 『どこにあるの?』 瑠衣が興味津々という顔をして身を乗り出す。侑が答えた場所は、都内でも指折りの繁華街ではあるけれど、意外にもそれほど畏まっていない地域だった。 『隠れ家のような店にしたいんだ』 そう言って侑は愉しげに口角を上げた。街の喧騒から逃れ、世界の片隅でひっそりと息づくことができる。そんな空間を作りたいのだという。 僕がいつかお酒が飲めるようになれば、侑のお店に行くことができるだろうか。 瑠衣は頬杖をつきながら、侑の顔を覗き込んだ。 『私、開店した時はお祝いの花束を持ってそこへ行くわ。お店の名前はもう決まってる?』 一呼吸置いてから、侑はその店名を口にする。 『──PLASTIC HEAVEN』 こぽり、と泡の弾ける音が聞こえた。 光を浴びてゆらゆらと揺れる度に煌めく、透明な水面。 水の底から見上げれば、そこに広がるのはプラスチックの空。どうにかして触れたいと必死に手を伸ばしても、向こう側へは届かない。 僕のいる場所を見渡せば、辺りは泥で濁っていて、あまりにも深く暗い。 ──これは、誰の夢だろう。 なぜか急速に頭の中に浮かんだそのイメージを振り払うように、僕は瞬きをした。 白昼夢は、棚引きながらやがて脳裏の闇へと消えていく。 『飛鳥、川の中に入らないか』 不意に沙生から誘われて、僕は顔を上げる。泳ぐにはまだ少し寒い季節だけれど、遮るものが何もないせいか陽射しは強い。 『うん。膝ぐらいまでなら、気持ちいいかも』 『いってらっしゃい』 憮然とそんな言葉を投げ掛けて、瑠衣はそっぽを向く。僕達を二人だけにしようという、彼女なりの気遣いなのだろう。 立ち上がった沙生に続いて僕も腰を上げる。水のある方へと肩を並べながら歩みを進めた。 いつの間にか、沙生が僕の手を取ってくれている。その温もりになぜか胸が小さく痛んだ。 毎日のように傍にいる。けれど、どういうわけか堪らなく懐かしさを感じる。 履物を脱ぎ、裾を膝まで捲り上げてゆっくりと水の中へと爪先を漬ける。手を繋ぎながら、足を滑らせないように、慎重に。 水の流れが足首をくすぐっていく。思っていたほど水温は低くない。むしろぬるく感じられた。 足を進めながら、僕はふと頭に浮かんだことを口にする。 『まるで心中するみたいだ』 『物騒なことを言うね』 沙生はそう言って笑った。子どもの頃も、こうして沙生と川の中で遊んだことがあった。その時は濡れることを厭わなかったけれど、今はやはり躊躇してしまう。 いつから臆病になったのだろう。 屈み込んで両手を川の中に漬ける。掌に掬えるだけ掬った水を、遠くへと放り投げてみた。 キラキラと陽の光を反射しながら、水滴は放物線を描いて水面へと還っていく。 『飛鳥』 不意に後ろから抱きすくめられた。沙生の声が耳元で低く響く。思わず川岸を確認したけれど、遠くに見える侑と瑠衣は僕達の方を向いていなかった。 『沙生……?』 恐る恐る呼び掛けても、愛おしい人は何も答えてくれない。 じわりと背中に汗が滲むのがわかった。恐怖に似たそこはかとなく不穏な何かが、僕の背中を覆っている。なぜだかそんな感覚がした。

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