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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 3rd day 8
どうすればいいのかもわからずに、視線を下ろす。足元では透明な水面が絶えず揺れている。その下に砂利混じりの川底が見えた。
海や川の水には、たった一滴の中に無数の生物が存在する。子どもの頃にそんなことを教えてくれたのは沙生だった。
そっと見上げれば、そこには鳶色の瞳。クリスタルガラスのように煌めきながら、僕の姿を映し出す。
甘く揺らぐ双眸に吸い寄せられるように背伸びをして、ゆっくりと瞼を閉じた。
生命の息吹を感じながら、僕達は静かに口づけを交わす。
このまま時が止まってしまえばいい。この瞬間を凍結することができれば、どれだけいいだろう。
けれど、それは叶わない。
もどかしい思いを抱えながら、僕は沙生から離れた。僕達は別個の肉体で、永く共にいることはできない。
これから先のことを考えることが怖い。この幸せはいつまで続くのだろうか。
例えば、自分に相応しい女の人を選び、結婚して子どもが生まれ、父親になる。
愛する妻と子どもたちに囲まれながら、ありふれたようでそうではない幸福な毎日を過ごす。
そういう未来をこの先ずっと沙生が選ばないと、どうして断言することができるだろう。
『飛鳥』
想像に耽る僕の顔を覗き込んで、沙生は髪を撫でた。その労わるような仕草に、僕を心配しているのだとわかった。
『大丈夫。何でもないんだ』
本当に、僕の懸念なんて何でもないことだ。考えたところでどうすることもできない。そして、これからどうなろうと、沙生と過ごすこの時間が僕にとって一番大切なことには変わらない。
頭の中でそう理解しているものの、現実に抱える不安を払拭することはできない。
ああ、それでも。
『飛鳥、愛してるよ』
僕の心を宥める言葉。呪文を唱えるように、密やかに沙生は囁く。その言葉に僕は慰められ、この上ない幸福を感じる。
『……僕も愛してる』
微笑みを交わしながら、僕はありったけの想いを込めて伝える。
沙生、沙生。
どれだけ睦言を紡いでも、僕の抱くそこはかとない不安は沙生まで届かない。
不意に、遠くで雷鳴が聞こえた。
視線を落とした先に、ぽつぽつと波紋が広がる。夕立ちが水面に細やかな波紋を描き始めていた。
『戻ろうか』
雨脚はどんどん強くなっていく。降りしきる雨の中、僕達は急ぎ足で岸へと引き返した。
『ほら』
すっかり濡れてしまった僕達を、侑と瑠衣はテントの下で待ち受けていた。頭からすっぽりとバスタオルを被せられて、まるで子どもの頃のようだと皆で笑い合う。
ふわりと漂う柑橘の香りに胸がどくりと高鳴る。これも侑が用意してくれていたものなのだろう。まるで、この雨が降ることを予想していたかのようだ。
柔らかなリネンからは、沙生と同じ匂いがした。
『そろそろ帰る支度をしようか』
僕達の顔を見渡しながら、侑がそう促した。すぐに止みそうな雨だったけれど、確かにそろそろ潮時だと思った。
幸せな夢の名残を惜しむかのように、陽射しが雲の隙間から溢れる。
『──飛鳥』
瑠衣が僕の名を呼んで近づいてくる。侑と沙生はもう片付けに掛かっていた。僕は立ち竦んだまま瑠衣の唇に視線を向ける。
艶々と潤う桜色の花弁が、微笑みの形に開いた。
『随分見せつけてくれたわね』
率直な物言いに気圧 される。瑠衣は自分に隠れて行われていた不正を咎めるかのように、僕をじっと見つめていた。
そんなつもりはなかった。けれど、瑠衣が沙生をまだ好きでいることも、こちらを見ているかもしれないことも僕にはわかっていた。
わかっていたのに、瑠衣のことを気にも留めない振りをした。
何も言えずに黙り込んでいると、瑠衣は畳み掛けるように口にする。
『別にいいわよ。私はあんたに沙生をあげたんだから。せいぜい、仲良くやってなさい』
突き放すような言い方だ。これが瑠衣にとっての思いやりであることが、弟の僕には痛いほどわかる。
血を分けた姉は、僕とは全然似ていない。顔も、性格も。けれど、愛したのは同じ人だった。
瑠衣は沙生の代替として、どこか沙生に似た人と深い仲になっては別れることを繰り返してきた。自由奔放で素直で、そんな彼女を誰も憎めない。強くて気高くて、それでいていじらしい姉は、少女の面差しを残しながら美しく成長している。
『いい? 私は言ったはずよ。ちゃんと掴まえておかないと、いつでも奪う準備はできてるって』
すかさず鼓動が嫌な音を立てる。
それは、僕の恋が実ったことを知った時に瑠衣が言い放った台詞だった。冗談などではないはずだ。瑠衣が本気を出せば、きっと何だって実現する。
本当に欲しいものを我慢する代わりに他の全てを手に入れようとする。けれど、我慢する理由がなくなれば全力で奪取する。彼女はそういう人だ。
『だから、あんたは絶対に沙生を愛し続けるのよ。わかった?』
有無を言わさぬ口調で念を押されて、却って不安になる。
沙生を愛し続ける。そんなことは僕にとって呼吸と同じぐらい自然なことだ。幼い頃から大好きだった幼馴染みと想いが通じ合って、毎日が幸せで仕方がない。
僕に沙生から離れるつもりなんて、あるはずがない。
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