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the last act. Plastic Kiss side A 〜 the 3rd day 10

在りし日へと僕を誘なう旅。 この四日間が、そういう類のものであるということには気づいている。 けれど、今ミツキと車で走るこの空間は、僕に馴染みのない場所のように思えた。 確かに知っている道だ。それでも、想い出とは結びつかない。 「アスカ、この辺りはわかるか」 「何度か通ったことはあるよ」 恐らくは、どこかへ行くために通りがかった道。ただそれだけだ。ここを目的として来た記憶はない。 パーキングに車を停めて、僕達は都心の賑やかな一角に足を踏み入れる。小洒落たテナントの入るビルが建ち並ぶ街は、華美ではあるけれど賑やか過ぎない落ち着いた空間だ。すれ違う人々はどちらかと言えば僕達よりも上の世代が多い。 ゆっくりと、ビルの谷間に陽が落ちていく。 「じゃあ、本当だったんだな」 ミツキはぽつりとそう呟く。何が? という問い掛けはこの場に相応しくないように思えた。これはきっと、ミツキの独り言だから。 「アスカは、ここへ来たことがないんだ」 「わからない。でも、多分ないと思う」 ふうん、と考え込むように息を漏らす。まるで僕がこの街を知っていることが当然であるかのようで、唐突に不安を覚えた。 僕は、何かを忘れているのだろうか。 触れる右手に先程よりもほんの少し力がこめられて、思わず横顔を見てしまう。 手を繋ぐことに対する罪悪感が少しずつ薄れている。それを怖いと思うけれど、振り解く勇気もない。 それは、この手を離して行くべきところが、僕にはわからないからだ。 メインストリートから外れて、細い路地を歩いていく。人通りは疎らで、ところどころに点在する店や建物は落ち着いた雰囲気を醸し出す。 上品なテーラー、畏まり過ぎないイタリアンレストラン、小さなカトリック教会。 夕陽を反射するステンドグラスを仰ぎながら、僕は小さく息をつく。 神様がもしも存在するのなら、どうしてサキは死に至る病気になってしまったのだろう。 聡明で優しく、美しかったサキ。 生物学を愛し、だからこそ誰よりも生命の尊さを知っていたはずのサキ。 代われるものなら、僕が代わりたかった。その願いは、叶わなかった今でもずっと胸のしこりとして残っている。 ふと足を止めたミツキに倣って僕も立ち止まる。教会を通り過ぎたところに、その薄暗い階段は存在した。 暗い地下へと続く、幅員の狭い螺旋階段。 ミツキはゆっくりとした足取りでステップを降りていく。導かれるように僕はその手を握りしめたまま後に続いた。 カツカツと二人分の足音が響く。秒針が時を刻むように、僕達は螺旋を描きながら地下へと潜っていく。 仄暗い空間を、ブラケットライトが柔らかく照らし出す。 石造りの壁。教会のようなアーチ型の木製扉に嵌め込まれたガラスは黒く、この向こうが闇であることを示していた。 サイドの壁に掲げられたプレートが、鈍い金色に光る。アンティークな輝きを放つのは、そこに刻まれたから流暢な字体のアルファベット。 『PLASTIC HEAVEN』 「ここが……」 「そうだ」 そっと微笑むミツキの横顔を見て、その扉に向きながら僕は立ち竦む。 ここが、ユウの経営するバー。ほんのわずかでも罪を償おうと足掻いた僕に、その機会を提供してくれた聖域だ。 僕はここへ来たことがなかった。ユウがバーを経営すると知った時は、いつか足を運びたいと思っていたけれど、そうこうしているうちにサキの病気が発覚し、僕はその機会を逃してしまった。 四日間の契約を始めてから、ユウは暗黙のうちに僕がこの店に近づくことを禁じていた。契約者と僕がこの店で顔を合わせることがないように。 僕の仕事に支障が出ることを、ユウは懸念していたのだろう。 「入ろうか」 ミツキはそう言って、ズボンのポケットからカードを取り出す。扉の取っ手に翳せば、小さな電子音と共にデッドボルトが回る音がした。 ミツキが店の鍵を預かっていることに、僕は小さな驚きを覚える。ユウとミツキの間に、一体何があったのだろう。 ゆっくりと扉が開く。中には吸い込まれそうに暗い闇が広がっていた。 壁の辺りに手を伸ばして、ミツキが灯りを点けた。店内がぼんやりと輪郭を現わす。 けっして広くはないけれど、空間を贅沢に使った店だ。隣の会話が気にならない程度の距離を保ってテーブル席が点在する。店の奥には、カウンター席。棚にカラフルなガラス瓶が並んでいる。 僕達はテーブル席を縫うように歩みを進めて、奥へと向かっていく。 店の照度はあまりない。どんな仕組みかはわからないけれど、壁が青く光っている。天井にはところどころに小さなダウンライトが埋め込まれていた。 立ち止まって、頭上を仰ぐ。金色に輝く筋が、僕のいる闇を照らす。 まるで、空から海の底を射す光のようだ。 「きれいだね」 思わず漏れた感嘆の声に、ミツキはそっと頷いてくれる。 広がる空間に掌を掲げた。 PLASTIC HEAVEN──ああ、ここには確かに空がある。

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