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the last act. Plastic Kiss side A 〜the 4th day 13
同じ棟にある簡易のシャワー室で身体を洗い流してから、僕たちは再び研究室に戻っていた。
終電はもうとうになくなっている。沙生は研究室の人たちがやって来る時間までここにいればいいと言ってくれたけれど、始発列車に間に合うように立ち去るつもりだった。
仮眠室で二人、時間を惜しむように寄り添って横になっていた。この時間は心が躍るほどに刺激的で幸せだ。この人と共にいれば、どんなところでも楽園になる。
ベッドに入る直前、僕は研究室の片隅に置かれた黒く四角い物体の存在に気づいていた。
黒い布で覆われた水槽。その中には、紛れもなくあの生物がいるに違いなかった。
『もしかして、沙生のプラナリア?』
あの不思議な生物に沙生がひとかたならぬ愛情を抱き、自宅で飼育していたことを僕は知っている。けれど、僕たちがこういう関係になってから、沙生のプラナリアはその部屋から姿を消していた。
『ああ、そうだよ』
あの頃からのプラナリアを手離すことなく傍に置いていることに、僕はわずかに心を痛める。それは、感情を持たないであろうその個体が、僕よりも沙生と長く時間を過ごしていることに対しての嫉妬だ。それに気づいた僕は、思わず小さな溜息をついた。
『飛鳥、プラナリアって、すごく逞しい生物なんだ』
優しい闇の中、沙生の温もりに包まれながら僕は耳を傾ける。しんとした静けさの中、二人で薄い毛布にくるまっていた。
まるで、繭の中でうずくまる蚕だ。
閉ざされた世界の片隅で、沙生は僕の髪を梳きながら静かに語り始める。
『プラナリアは高い再生能力を持ってる。胴体を切ったらその分個体が増えることは知ってるね。それがプラナリアの増殖する手段だ。プラナリアはある一定の大きさまで育つと、胴体の中央にある咽頭の少し下でくびれて二つに切れ、それぞれが個体となる。つまり、無性生殖をするんだけど』
そこで言葉を区切って、沙生は宥めるように僕をそっと抱く。
クローン増殖することが特徴的な生物だということは、高校の授業で習ったことがあった。極めて原始的な、再生研究のモデル生物。あの姿でなければ、僕もその生態を愛おしく思っていたかもしれない。
『実はね、プラナリアは有性生殖もできるんだ』
『そうなの?』
驚いて顔を上げる僕に、沙生が微笑みかける。薄闇の中でも、その瞳はわずかな光を集積して美しく煌めく。
『プラナリアは、栄養条件が悪かったり気温の変化で自分を取り巻く環境が悪化したりすると、体の中に精子と卵子をつくって受精する。そうやって、新しい遺伝子セットをもった子孫を残すんだ。無性生殖と有性生殖を使い分けて、個体の数を効率的に増やし、遺伝子の多様性も維持できる。とても生命力の強い、不思議な生物なんだよ』
『知らなかった』
感嘆をつきながら、僕はぼんやりと考える。
その生殖活動に、プラナリアの意思はあるのだろうか。
きっと、彼らは自分の遺伝子を残そうと考えているわけではないだろう。
彼らはただ、遺伝子に組み込まれたプログラムに従って繁殖しているに過ぎない。
『すごい生物なんだね』
無性生殖をすることで有名なプラナリアが実際にはそんな生態であることを、僕は知らなかった。
素直に感嘆すれば、沙生か小さく笑う。
『すごい、か。俺からすれば飛鳥の方がすごいけどね』
『どういうこと?』
訊き返した言葉に、返事はなかった。
否、もしかすると何か答えはあったのかもしれない。そして、それは恐らく僕を賛美する内容のものであっただろう。
けれどもう、その言葉を想い出すことができない。
僕には何の力もない。
僕はただ、大切な人を死に追いやることしかできなかった。
ぬばたまの闇で、こぽりと泡の生まれる音が聞こえた気がした。
深い海の底に沈みながら、僕たちは太古に生物の繁栄していた世界を夢見る。
光を反射する水面を見上げて、生命を持つものたちが早巻きに進化していくのを、ただぼんやりと眺めるのだ。
僕には愛する人の子どもを残すことができない。
けれど、かつてそう告げた僕に、彼は構わないと言ってくれた。
螺旋を描きながら、記憶は鮮やかに蘇る。
凪いだ海のように穏やかな眼差しが、僕を真っ直ぐに見つめる。美しい鳶色の瞳が、夜の闇に美しく煌めく。
クリスタルガラスのように光る清らかな双眸。
その輝きは命の灯火だったのだと、今ならわかる。
そして、夜の帳は僕たちの姿を世界から消していく。
ねえ、サキ。
僕はサキの生きる希望になりたかった。
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