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the last act. Plastic Kiss side A 〜the 4th day 14

研究室を出ると、マキタさんの姿は見えなかった。もうここから立ち去ったのだろう。 ミツキは腕を組んで壁に持たれながら窓の外を眺めていた。 「待たせてごめん」 謝罪の言葉にミツキはかぶりを振る。僕はどれだけの時間をここで過ごしていたのだろうか。感覚が曖昧になっているけれど、相当な時間が経っていることはわかった。 「構わないよ。気にするな」 そう言って目を細める。その微笑みは、ひどく大人びて見えた。 「今まで俺がどれだけ待ったと思ってるんだ。これぐらいの時間、なんてことない」 優しさに甘えることは罪だとわかっている。それでも僕はミツキの存在に寄り掛かり、心から安堵してしまう。 待ってくれる人のいることがどれほど心強いかを、僕は知っていた。 キャンパスを出て、開店していた学生街の定食屋で食事を済ませてから、僕たちはミツキの家に戻った。 そこでひと息ついて、今度はパーキングに停めていた車に乗り、再びどこかへと出発する。 行く先は知らない。けれど、ミツキが明確な目的を持って僕をその場所へと連れて行こうとしていることは察していた。 車は高速道路に乗り、郊外を軽やかに走り抜ける。照りつける陽射しの強さに目を細めながら、僕は小さく溜息をついた。 大学の同級生と取り留めのない会話をし、食事をして、穏やかで何気ない休日を過ごす。 こうして、自分がごくありふれた学生生活のようなことをしているというのが信じがたかった。 この四日間を、僕はどう終えるのだろう。そして、ミツキはこれからどうするつもりなのだろう。 「……ミツキ、僕は怖いんだ」 そうこぼせば、ミツキは横目で僕をチラリと見る。 「そうだな。お前にとっては怖いかもしれない」 何が、というのは互いに口にしない。その意図するものは、きっと同じに違いない。 この旅路はあと数時間で終わる。けれど、終焉を未だに僕は実感することができない。 僕はサキのいない世界に馴染み過ぎたのだろう。だから、ここから抜け出すことが想像できない。 水の底にひっそりと生きる深海魚が、浅瀬へ出ることがないのと同じに。 僕をこの世界に縛りつける戒めから解き放たれることが怖い。 「だけどね、アスカ。忘れないでほしい」 僕の隣でミツキは真っ直ぐに前を向いていた。フロントガラスの向こうに広がるのは、僕の知らない世界。 「俺は確かにアスカの傍にいたいと願ってる。だけど、お前さえいればそれだけでいいだなんて、全然思っちゃいないんだ」 思いがけない言葉にミツキの横顔を見つめてしまう。 愛する人さえいればそれでよい。かつて僕はそう強く切望していたから。 「アスカと一緒に笑ったり悲しんだりしながら毎日を過ごしたい。だけど俺は欲張りだから、他のものを諦めたりはしない。大学で勉強したり、やりたいことを見つけたりして、いろんな可能性を探したい。意地を張って迷惑を掛けた分、自分の家族も大事にしていきたいと思ってる」 「子どもは? 子どもが欲しいと思ったことはない?」 つい口を突いて出た言葉に、ミツキは一瞬口を噤む。酷なことを訊いているという自覚はあった。高校生だったミツキが交際相手の妊娠を知った時、産んでほしいと願い、叶わなかったことを僕は知っている。 「あるよ。好きな人と結婚して子どもが生まれて、幸せな家庭を築く。それが俺の辿るべき道だと思ったこともあった。でも今は違うんだ。こんなことを言うのは、アスカに気を遣ってるからじゃない」 前置きのようにそう言ってから、ミツキは僕に視線を送った。 流れる景色の中、僕たちは二人閉ざされた空間に佇む。 「愛する人と一緒にいたい。だから、一緒にいる。今はそれが一番大事なことだと思ってる。子どもができるかどうかは男女の関係における可能性のひとつに過ぎないし、そもそもそれが幸せの絶対条件だとしたら、あまりにも限定的だと思わないか。例えば俺自身は、一番愛する人を差し置いて他の人と結婚しても幸せにはなれない気がする。それで子どもができたとしても、手放しでは喜べないだろうし、過去を振り返っては後悔するんじゃないかと思う」 愛する人と一緒にいたい。だから、一緒にいる。 その言葉を胸の奥で噛み締めるように反芻する。ミツキの言いたいことは、理解できる気がした。 僕の父は、母と結婚して子どもができても、愛する人のことを諦めることができなかった。 先日会った父の優しい眼差しを思い浮かべながら、僕は目を閉じる。 視界が闇に包まれた瞬間、そっと頰を撫でられる感触がした。割れ物に触れるかのような、繊細な手つきだ。 僕が必要としているのは、この手なのだろうか。

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