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act.2 Cherry Kiss 〜 the 4th day 1
朝起きるとアスカは傍にいなかった。朝食の支度をしてるんだろう。
顔を洗ってダイニングに行くと、身支度を終えた父さんがいた。
「レン、今日は帰れないから、ちゃんとアスカさんの言うことを聞きなさい。留守番を頼む」
俺は何も言わずに素直に頷く。玄関先で父さんを見送ったアスカが、俺のところにやって来た。
「レン、用意しようか」
俺は制服じゃなくて普段着に着替える。学校には行かないから。
そうだ、お金を持って行かないと。でも、手持ちがそんなにないかも。
慌てて財布を引っくり返す俺に、アスカが微笑んだ。
「お金のことは心配しなくていいよ、僕が建て替えておくから」
ああよかった。アスカはやっぱり俺より大人で、頼りになる。
アスカが用意してくれた朝食をしっかり平らげて、通勤ラッシュを避けるために、二人で午前10時に家を出た。
最寄りの駅から一緒に電車に乗り込む。目的地までは電車を乗り継いで2時間半ぐらいだから、先は長い。
カップルシートで俺はアスカと手を繋ぐ。周りは知らない人ばかりだし、せっかく二人で出掛けてるんだからイチャイチャしたかった。
アスカにもたれ掛かって、誰にも見られてないのを確認して頬にキスをする。もう一回しようと思って顔を近づけたら、アスカが急にこっちを振り向くから唇にキスしてしまう。
「レン、かわいいね」
魅惑の微笑みに俺の心臓は爆音で鳴り響く。すごく嬉しくて、幸せな気持ちでいっぱいだった。
お昼時になって、乗り換えの駅で一旦降りて駅前の適当なお店に入る。いかにも老舗って感じのお蕎麦屋さんだ。
ざるソバのセットを二つ注文して、熱いほうじ茶に口を付けながらアスカをそっと見る。アスカはきっと、神様からすごく愛されてる。だからこんなにキレイなんだ。
「レン、緊張してる?」
桜色の唇はつやつやで、今すぐにキスしたいぐらいおいしそうだ。
「大丈夫。アスカがついてくれてるから」
それは本当だ。俺一人だったら、絶対に勇気が出なかった。
ざるソバを食べながら、好きなものや学校のことなんかの他愛もない会話を交わす。デートみたいですごく楽しい。アスカと過ごす時間はあっという間に過ぎていく。
お店を出てからまた電車に乗った後、目的の駅で降りて更にバスに乗り換えた。知らない土地でバスに乗るのって、ちょっと不安でドキドキする。目的地が近づくにつれて、だんだん緊張してきた。
アスカがいるから大丈夫。自分にそう言い聞かせる。
「どこまでついて行けばいい?」
さっきからそわそわしてる俺の手を、アスカが握ってくれる。
「最後までだよ」
「僕、保護者みたいだね」
そう言って笑顔を見せるアスカに、俺は心の中で訊いてみる。
俺がもっと大人だったら、アスカとずっと一緒にいられた?
でも、きっと悲しそうな顔で無理だと言われてしまう気がした。
「それ、すごく便利だね」
スマホの地図を頼りに歩く俺の隣で、アスカが感心したように言う。
せめて連絡先ぐらい知りたかったのに、アスカは携帯電話自体を持っていないらしい。そんな人がいるなんて信じられないんだけど。
とうとう、探してた表札を見つけた。
俺の家よりこじんまりとしてるけど、手入れが行き届いた庭や、そこに並ぶかわいらしいオブジェが、住んでる人の性格を表わしてる。
ここは、母さんの住む家だ。
この一年間、俺は母さんに会ってなかった。離婚して親権がない方の親が子どもと会う権利を、面接交渉権っていうらしいんだけど、母さんにはそれがない。
別れて暮らす親が、難しい年頃の子どもと会うことで精神的によくない影響を与える可能性があれば、面接交渉権が認められないことがある。そういうことを調べたことがあるって、アスカが教えてくれた。母さんと俺は、このケースにあてはまってしまったんだろう。
俺は母さんの住所を知らなかったし、父さんに訊いても絶対に教えてくれないと思った。だから、アスカにこっそり調べてもらったんだ。
母さんに会いたかった。一緒に暮らしたいとか、そんなんじゃない。
母さんにはもう別の家族がいることはちゃんとわかってる。ただ、会うことで自分の今立ってる場所をちゃんとわかっておきたかった。
そういう気持ちでこうして衝動的に押しかけてきたけど、もしかすると母さんは俺に会いたくないかもしれない。
キレイなアーチを描く門の前でどうしようか迷ってると、アスカが手を伸ばしてインターホンを押した。
「わ、アスカ……!」
はい、とインターホンが応答する。変わらない母さんの声だ。
「母さん、俺だよ」
勇気を振り絞って声を出すと、プツリと音が切れた。しばらくして、玄関のドアがゆっくりと開く。
「廉……どうしたの?」
一年振りに会う母さんは、前よりも少しふっくらとしてる。びっくりした顔をして俺をまじまじと見つめていた。
ああ、懐かしいな。褒められたこと、叱られたこと、いつも繋いでくれた手。子どもの頃からの想い出が、次々に頭の中に浮かんでくる。
「お上がりなさい」
「ここでいい。すぐに帰らないといけないから」
家に上がり込んだら、もう帰りたくないと思ってしまうかもしれない。だから俺は適当なウソをついく。
「その人は……」
「家庭教師の先生。俺が無理を言ってついて来てもらったんだ」
俺の傍で会釈するアスカに、母さんは戸惑った顔で頭を下げる。
「……元気にしてるの?」
「元気だよ、すごく」
そう言う母さんは元気そうで本当に安心したし、嬉しかった。
「父さんが、再婚するんだって」
ついそう言ってしまえば、母さんが急に心配そうな表情をする。
「廉、大丈夫なの?」
「大丈夫。俺、そんなに子どもじゃないよ。心配しないで」
心配を掛けたくないから、俺は無理に笑ってウソを重ねる。
「母さんは……今、幸せ?」
俺の言葉に困った顔で黙り込んでしまう。でももう俺は気づいてるんだ。遠慮して言えないだけで、母さんは幸せなんだってことに。
その時、家の中から赤ちゃんの甲高い泣き声が聞こえてきた。
「ごめんなさい、ちょっと待ってて」
母さんが背を向けて家の中に入っていく。
――そうだ。もう、生まれてるんだ。
しばらくして、母さんがまた外に出てきた。その腕には、水色のおくるみに包まれた赤ちゃんが抱かれてる。泣いて寝ておっぱいを飲んで、自分のことはまだ何もできない。そんな小さな赤ちゃんだ。
「かわいいね、男の子?」
母さんは優しい顔で赤ちゃんと俺を交互に見つめてそっと口を開く。
「ええ、そうよ。あなたの弟ね」
一人っ子だった俺は、子どもの頃からきょうだいが欲しいと思ってた。だけど母さんが家を出ると言い出して、お腹に子どもがいるとわかったとき、俺はこの子にすごくヤキモチを妬いた。赤ちゃんができなければ、母さんは俺とずっとあの家にいてくれた気がしたからだ。
でも、今やっとわかったよ。この子に罪なんてなかった。この子が、母さんを窮屈な家から解放してあげたんだ。
「抱っこしてもいい?」
俺の言葉に母さんが頷く。そっと母さんから赤ちゃんを受け取ると、すごく軽かった。ほっぺがぷくぷくで、ミルクの甘い匂いがする。俺の顔をじっと見ながら、小さな声をあげた。本当にかわいいと思った。
この子が、俺の弟。母さんを幸せにする子だ。
「すごくかわいいね。ありがとう」
神様が母さんに授けた天使のような弟を、母さんに手渡す。
「もう、ここには来ないよ」
俺は精一杯頑張ってそう言った。母さんが俺のことを心配しなくて済むような笑顔を必死で作る。うまく笑えてるのかわからなかった。
「俺、母さんが幸せでいることを確かめに来ただけなんだ。だからすごく安心した。俺は大丈夫だから心配しないで。じゃあ、もう行くね」
母さんの潤んだ目から涙がこぼれる前に、俺はアスカの手を引いて背中を向ける。後ろから俺を呼ぶ声が追いかけてきた。
「廉」
ダメだよ。もう、振り返れないんだ。
「廉、大好きよ」
母さんの声を背に、俺は涙をこらえながらアスカと足早に一番近くの角を曲がった。
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