28 / 337
act.3 Binding Kiss 〜 the 4th day 1
「どうやって死のうか」
何を食べようか、と同じような無邪気な口振りでアスカが俺に訊いてくる。隙間から射し込む朝陽は眩しくて、カーテンを開ける気にもならない。
「腹上死だな」
「いいね」
「よくねえよ」
冗談で言ったつもりが、アスカは満更でもないように笑った。囚われていた何かから解放されたような、清々しい顔だった。
ベッドからおもむろに身体を起こしてアスカは俺を見下ろす。
「死に方は帰るまでに考えようか」
「帰るまで?」
「そう。今日はリュウジさんの想い出の場所へ行くんだ」
腕を引っ張られて、俺は渋々起き上がる。身体にいまいち力が入らない。なんせ昨日は一日何も食べていなかった。
「それが儀式なんだって。前に会った人が言ってた」
「儀式、か」
自分の葬式だと思えばちょうどいいかもしれない。
服を着ると階下へと降りて、まず水を飲んだ。喉の渇きが癒えたところで酒瓶を手に取った途端、アスカに咎められる。
「お酒は駄目だよ。車で行くから」
どうして車なんだと思ったが、確かに手錠をした状態で電車に乗ることは考えられなかった。
「お前が運転しろよ」
「無理だ」
即座にそう答えてアスカは右手を上げる。繋がった左手が引っ張られて金属の輪が手首に食い込んだ。
「ほら。リュウジさんが右側じゃないと駄目でしょ」
「わかったよ」
生憎、俺の車は左ハンドルじゃない。酒は諦めざるを得なかった。
出掛ける用意をして家の車庫まで出る。手錠で繋がっているせいで同じドアから乗らなければならないことに気づく。運転席から助手席に乗り込んだアスカに続いて、俺も運転席に座る。面倒なことこの上ない。
そういえば、長い間この車に乗っていなかった。嫌な予感がする。
キーを回してみれば、案の定エンジンが掛からない。何度か試してみたが、無駄な足掻きだった。
「バッテリーが上がってる。駄目だ、降りるぞ」
舌打ちしてキーを外すと、隣でアスカが考え込む素振りを見せた。
「どのぐらい乗ってなかった?」
「最後に乗ったのは、せいぜい半年前だな」
「じゃあ、多分大丈夫だ。携帯、貸して」
「お前、携帯ぐらい持ってねえのか」
言われるままに携帯電話を渡すと、アスカはどこかへ電話を架け出す。
「色々面倒だから」
そう言いながら呼出音に耳を傾ける。相手が出たらしく、途端にアスカの表情が和らいだ。
「今大丈夫? リュウジさんの家にいるんだけど、バッテリーが上がっちゃって車が動かないんだ」
何を言っているかまでは聞き取れないが、相手の気怠げな声が聞こえた。通話を切ったアスカは、俺に携帯電話を差し出す。
「20分ぐらいで着くって」
「誰に電話したんだよ」
わかってはいるが敢えてそう訊けば、涼しい顔をして悪びれた様子もなく答える。
「ユウに」
今から死ぬと言っているのに、どういうつもりなんだ。こいつは本気で俺と死ぬ気なのだろうか。
まさかと思う反面、もしかしたらという気持ちもあった。アスカの抱く底知れない淋しさを、俺は会った瞬間から感じているからだ。
車の中で時間が過ぎるのを待つうちに、当然のように手を繋いでいることに気づく。いつの間にかこいつのペースにすっかり巻き込まれている。
「人間って、辛い記憶を忘れられるようになってるんだって。じゃないと、生きていけないから」
おもむろにそう言うアスカの哀しそうな横顔から、目が離せない。
「じゃあ、忘れられない人はどうやって生きていけばいいんだろうって、ずっと考えてた」
「お前、一体何があったんだ」
俺は自分のことを勢いに任せて色々と喋ってしまっていたが、アスカのことは何も知らなかった。
けれど、アスカは何も答えない。今にも泣き出しそうな微笑みに、俺はそれ以上追及することができなかった。
お前はまだ20歳だ。人生を諦観するには、あまりにも早い。
そのとき、太い排気音がゆっくりと近付いてきた。
車高の低い大きなスーパーカーが車の前で停まる。よく磨き上げられたドアが、光を反射しながらゆっくりと上にスライドした。国産車にはない独特のスタイルだ。
「よう。ロードサービスのお出ましだ」
ヤケクソ気味に言いながら、いけ好かない男が運転席から出てくる。アスカの表情がみるみる明るくなった。
「こんな住宅街にランボルギーニで来るなよ」
パワーウィンドウを開けて嫌味を言えば、高尾侑は忌々しげに舌打ちする。
「お前のために来たんじゃない。さっさとボンネットを開けろ」
言われるままに足元のレバーを引くと、高尾は不貞腐れた面をしながら半開きになったボンネットに手を掛けて大きく開け放ち、手際よくブースターケーブルを繋いでいく。
アスカに言われてこんなことをするために駆けつけるとは、随分甲斐甲斐しいもんだ。
しばらく待ってからエンジンキーを回すと、軽快な音を立ててエンジンが掛かった。
「ユウ、こっちに来て」
アスカが助手席のドアを開けて高尾を呼ぶ。こちらへと近づいてきて、高尾はようやく俺たちが手錠で繋がっていることに気づいた。
一瞬、眉を顰める。だがそれだけだった。
シートに掛けたまま、アスカは自由な左腕を伸ばす。その華奢な身体を高尾がしっかりと抱きしめた。
「ありがとう」
長い抱擁だった。その光景に俺は嫉妬を覚え、そんな自分に戸惑う。やがて身体を離して、高尾はアスカを見つめながら頭を撫でた。
アスカ、お前は馬鹿だな。保護者がそんな瞳をすると本気で思ってるのか。
「先に帰ってるからな」
高尾はそう言って俺には目もくれずに、家一軒が買えるような値段のイタリア車に乗り込んだ。
先に帰るということは、家で待っているつもりなんだろう。
重い排気音が遠ざかると、アスカは俺を振り返った。
「リュウジさん、行こう」
澄んだ眼差しに、迷いはなかった。
アスカと手を繋ぎながら、俺は片手でステアリングを握る。まるで恋人同士のようだ。
30分程車を走らせると、懐かしい建物が見えてきた。
「ここ、リュウジさんの勤めてた学校?」
校舎を取り囲む塀に沿わせて駐車する。青空にベージュ色の外壁。コントラストが美しい、変わらない光景だ。
「ああ、翔子と出会った場所だ」
俺は13年前に想いを馳せる。
誰もいない教室で、俺は翔子に口づけた。唇が触れるだけの軽いキスの後に、翔子は俺を冷たくあしらう。
『先生、今は進路指導の時間でしょう』
『硬いことを言うなよ』
咎められたことで渋々身体を離して、向かい合わせに腰掛けた。
『お前の進路はもう決まってる』
翔子は真っ直ぐな眼差しを俺に向ける。穢れのないきれいな瞳だ。
『私、行きたい大学があります』
『そこを卒業してからでいい。俺の嫁になれよ』
そう告げれば、翔子は俺から視線を逸らした。
『先生がそれまで私のことを好きかどうかなんて、わかりません』
俺は手を差し伸ばして滑らかな頬に触れ、戸惑いに揺れる顔を覗き込む。
『それまで待つよ。ずっと俺の傍にいてくれ』
教室でプロポーズだなんて、馬鹿なことをしたもんだ。
なあ、翔子。
俺と一緒にいなければ、お前はまだ生きていたんだろうな。
「リュウジさんって、どの教科を教えてたの?」
「生物だ。似合わないとか言うなよ」
そう答えた途端、アスカが身を乗り出してくる。
「本当? 僕の知ってる人が、大学で遺伝子工学の研究をしてたんだ」
久しく会っていない者を思い浮かべているのか、その瞳には涙に似た光が宿っていた。
「よく遺伝子の話をしてくれたのを思い出すな」
「ちゃんと内容を覚えてるなら上等だ。こっちが一生懸命教えても、卒業したら生徒はミトコンドリアしか覚えてねえからな」
そう言えば、アスカは柔らかな微笑みを浮かべて遠くを見る。俺が翔子との記憶を辿っているように、アスカもまた誰かのことを想い出しているようだった。
ともだちにシェアしよう!