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act.4 Lost-time Kiss 〜 the 3rd day 4
「左手が痺れるって。最初……サキはそう言ってた」
そう口にしたアスカが目を逸らしたのは、俺の前でその名を出すことに罪悪感があるからかもしれない。
「僕はサキと歩くとき、いつも左側にいたんだ。だから、手をたくさん繋いでるからかもしれないって、サキは冗談みたいに笑ってた。でも、だんだんその痺れが左腕に広がって、腕が上がりにくくなってきたみたいで……近くの病院に行くと、すぐに大きな病院を紹介された」
天井を見上げながらアスカは淡々と話し続ける。溢れそうな感情を、懸命に押し殺しているように見えた。
「サキが侵されていたのは、治療法がない難病だった。筋肉が縮んでいく神経の病気で……進行性だからすぐに症状が進んで、どんどん手足の筋肉が痩せて動かなくなっていく。やがて、ものを飲み込むことや会話もできなくなって、最後には呼吸が止まってしまう。障害を受けるのは運動神経だけだから、そうして病状が進行していく間も感覚や意識ははっきりしてるんだって」
アスカの声は、囁きのように微かだった。
動くことも会話もできなくなるのに、それをしっかりと自覚できる。自分の身に置き換えようとしても、その苦しみは想像もつかなかった。
呼吸をすることさえ忘れていることに気づいて、俺はゆっくりと息を吸う。何かがつかえているように胸が重苦しい。
「三年から五年。それが、サキに残された時間だった。サキは初めの頃は気丈に振る舞ってたけど、病名がわかったときには日常生活にも支障が出始めていたから、研究室には行かなくなってしまった。僕はサキの支えになりたくて、その頃から大学を休んでなるべくサキと一緒に過ごすようにしていた。でもサキはやっぱりすごく不安で、絶望してたんだと思う。病気の進行を遅らせる薬の他に、安定剤や睡眠剤を出してもらって飲んでたんだ。そうやって、サキは心も身体も少しずつサキじゃなくなっていった」
二十歳代半ばでのその余命は、あまりにも残酷だ。思わずアスカの手を握りしめれば、先程まで湯舟に浸かっていたとは思えないぐらい冷たくなっていた。
「僕に姉がいるのは知ってるよね。ある日、僕は姉の様子がおかしいことに気づいた。不自然に避けられていることに耐えられなくて、僕は姉を問い詰めた。初めは黙ってたけど、とうとう姉は言ったんだ。サキとセックスしたって」
その声は今にも泣き出しそうに震えていた。
もういいよ。アスカ、もういい。
喉元まで出かかったその言葉を、俺は必死に飲み込む。アスカが自分の意志で話しているのに、それを遮る権利は俺にはなかった。
「信じられなかった。そんな身体でどうして今、姉を抱いたんだ。僕はサキのことをたくさん責めた。僕を愛してるからだと言ってサキは笑った。全然意味がわからなかった」
天井を見上げるアスカの目が、潤んだ光を湛えて揺れる。
『光希、抱いて』
あの時二人きりの教室で、アスカは俺に縋ることで必死に自分を保とうとしていたんだ。
「サキが姉としたことを考えると本当に辛かったけど、赦さなければいけないと思った。僕はサキを愛していたし、サキに残された時間はあと少しだった。だけど、サキが検査のために入院してすぐに、僕たちはちょっとしたことで言い合いになった。僕は姉のことを蒸し返して、またサキを責めた。サキの病気のことや裏切られたことで、僕自身も精神的に参ってたんだ。でもそんなのは言い訳にならない。サキなんていなくなればいい──僕は、サキにそう言った」
俺は息を呑む。大きな目から次々とこぼれ落ちる涙を拭ってやりたいのに、触れるのが怖くてただ見ていることしかできない。
「片腕でサキは僕を強く抱き寄せた。そのとき交わしたキスのことを、なぜか僕は思い出せないんだ。僕を愛してるとサキは言った。愛してるから生きてくれと。一瞬のことだった。サキは僕を突き離して病室の窓から身を投げた」
アスカが涙を流しながら目を閉じる。瞼の裏にはきっと、悪夢のようなその光景が鮮明に浮かんでいるに違いない。
「窓から身を乗り出すと、もう動かなくなっているサキが小さく見えた。サキのところに行こうとしたのに、いつの間にか駆けつけていたユウが僕を引き止めた。だから、僕は後を追うことができなかった」
アスカがこちらに身体を向けて俺を見上げる。涙で滲んだ瞳には、ようやく俺の姿が映っていた。
「サキが亡くなってからしばらくの間、僕の記憶はすっぽりと抜け落ちてる。気がつけば葬儀は終わっていた。僕は参列できる状態じゃなかったらしくて、サキにお別れもしてないんだ。だから、死んだという実感もない。サキのところへ行って、ちゃんと謝りたいと思った。死に場所を探して家を出た僕の生命を繋ぎとめたのは、ユウだった。この世界には僕を必要としてくれる人がいる。どんな形でもいいから生きろと、言ってくれたんだ」
だから、アスカはあのバーのマスターと一緒にいるんだ。そして、魂の抜け落ちた状態でふらふらと彷徨うように生きてきたんだろう。
「サキを失ってからの僕は、死ぬこともできずに悪夢のような現実をあてもなく生きてきた。サキに謝らないといけないのに、サキにはもう会えない」
アスカが縋るような瞳で俺を見る。その眼差しに応えられるだけの言葉を、俺は持ち合わせてはいなかった。
「どうしていなくなればいいなんて言ってしまったんだろう。サキが僕を愛していないことはわかってた。それでもよかったんだ。どんなサキでもいい。たとえ身体が動かなくなっても、僕はただ傍にいたかった」
俺はアスカの身体に腕を回す。こんなにも近くにいるのに、今にもすり抜けて消えてしまう気がして怖かった。
「僕が、サキを殺したんだ……」
小さな子どものように顔を歪めて大粒の涙を流すアスカを、しっかりと抱き寄せる。どんな言葉を掛けても、今は陳腐な台詞にしか聞こえない。
必死に感情を抑えようとするアスカの姿は本当に儚げで、今にもこの世界から消えてしまいそうだった。
「いいよ。我慢するな」
腕の中で華奢な身体が小刻みに震える。やがてこぼれてきた悲痛な嗚咽を聞きながら、俺はただその身体を強く抱きしめることしかできなかった。
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