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act.5 Caged Kiss 〜 the 2nd day 5
「ヒナ」
優しい声が頭上から聞こえる。天使はきっとこんな声をしてるんだろう。
「気持ちいい?」
「うん……」
ベッドで俯せになった俺に跨がって、アスカが優しく背中を解してくれる。俺は結局押しに負けて、今夜もアスカを部屋に招き入れてしまっていた。
アスカの掌は気持ちいい。目を閉じれば、雲の上にいるみたいな浮遊感。まだ寝るには早い時間なのに、もう眠ってしまいそうだ。
「ヒナはここに来る前、どんなことしてたの?」
「普通の、大学生だった」
心が溶けていくようなふわふわした気分になっていて、なぜか余計なことまで言ってしまう。
「俺の実家、ここからちょっと遠くてさ。地元の大学も受けたんだけど、こっちの大学しか通らなくて、上京してきたんだ。そこは、高校の友達が推薦で決まってたとこで」
雄理が進学するって知って、こっそり受けた大学。それが、俺の通う大学だった。
「同じ大学に行きたいと思うぐらい、その人と仲が良かったんだ」
仲が良かったわけじゃない。だって、結局俺は大学に入ってからあいつと一言も話してないんだ。
俺は雄理の整った顔を思い浮かべる。ずっと会ってなくても、どんなに忘れたくても、あの凛とした眼差しははもう脳裏に刻み込まれてしまってる。
「好きだったんだ。その人のこと」
不意にそんなことを言われて、俺の気分は雲の上から一気に墜落していく。
「違うよ」
「背中、緊張してる」
さらりとそう言われて、俯せた顔が赤くなっていくのを感じる。
そうだ、確かに俺はあいつが好きだった。でも俺のバカみたいに臆病な恋は、結局成就しなかった。
泣きそうになってる自分に気づく。だから思い出したくないんだ。
不意に背中に触れる手の動きが止まった。
『陽向』
耳もとに蘇る、優しい響き。ずっと忘れたつもりでいたのに。
戻りたい。本当はこんなところにいたくない。こんな仕事もしたくない。でも幸せを求める権利なんて俺にはないから、諦めたフリをして無理矢理自分をごまかしてきた。
本当は、当たり前みたいに過ごしてたあの頃に戻りたくて堪らない。俺はただ、雄理の傍にいられればそれでよかったんだ。
「ヒナ、こっち向いて」
「いやだ」
声が震えてる。みっともないところを見られたくなくて顔を枕に埋めてると、俯せた身体を横に転がされてしまう。強い力で肩を掴まれて、そのまま引き起こされる。
「ヒナ」
俺の顔を覗き込むアスカは、本当に心配そうだった。その澄んだ瞳には、涙でグシャグシャになったみっともない顔が映ってる。全てを見透かすようなきれいな眼差しに、俺は縋ってしまう。
「もうここから出られないって、わかってる。行けるところなんてどこにもないし、外に出ても会いたい人にはもう会えない」
家族にも、雄理にも。俺が会いたい人は、俺のことなんて待ってない。瞬きをすると涙がパタパタと落ちていく。
「でもこのままだと俺、いつか壊れちゃうかもしれない」
──たすけて。
喉元で誰にも言えなかった言葉がぐるぐると渦巻いてた。このまま吐き出してしまいたい。
その時、甘い匂いがふわりと鼻を刺激する。俺はアスカに抱きしめられていた。
「ヒナ、大丈夫。大丈夫だから」
アスカが俺の耳もとで囁く。甘く誘うように掠れる、声。
「僕が、ここから出してあげる……」
俺は身動きもできないまま、この世のものとは思えない美しい眼差しに吸い込まれていく。
「アスカ……」
触れるだけの優しい口づけが、俺を根こそぎさらっていく。
それは、世界を変えるぐらいに甘美なキスだった。
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