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act.5 Caged Kiss 〜 the 3rd day 1
「ヒナ、行こう」
今日も昼間から指名が入ってる。俺はアスカと一緒に事務所を出て、今日一番の仕事に向かった。
アスカの顔がちゃんと見られなくて、乗り込んだ車の後部座席でそわそわしてしまう。
滑るように発進するブルーバード。車内にゆっくりと立ち込める甘い匂いがアスカのものだということを、俺はもう知ってる。
『ヒナ……』
昨夜のアスカの声が、耳にこびりついてる。
触れるだけのキスを何度も繰り返しただけなのに、唇が性感帯のように甘く痺れた。
『……ん、ぁ……っ』
思わず声を漏らせば、アスカが俺の下唇をそっと舐める。
『ヒナ、感じてる?』
唇を離しながら妖しげな微笑みを浮かべて、アスカは俺の下半身を弄りだす。そこは怖いぐらいにはっきりと反応してた。
『ここ、してあげようか』
熱っぽい声で囁かれて、理性がぐらつく。言葉が喉に引っ掛かって、うまく出ない。
『……ダメ』
『どうして?』
毎日毎日、客に触られてる身体だ。今更抵抗はない。それでも俺は、アスカとはそんな関係になりたくなかった。
『俺、そこは他人にされてもイけないから』
やっとのことでそう言うと、アスカは細めていた目を見開いて、きょとんとした顔になる。その顔が意外なぐらいあどけなかった。
『そうなんだ』
こくこくと必死に頷く俺を見たアスカは少し笑って、勃ち上がりかけてるそこから手を離す。そのきれいな瞳から、たちまち妖艶な色が抜けていった。
俺は心の底から安堵して、同時に確信する。
アスカは、やっぱりこっち側の人間なんだ。しかも、俺なんかよりもずっと経験を積んでる。
そんな奴が、どうしてここでドライバーをやってるんだろう。
『もう、寝ようか』
微笑みながら、アスカは俺から少しだけ離れてベッドに横たわる。
わだかまりを抱きながら、狭いシングルベッドで寝つきの悪い夜を過ごした──。
車窓から見える空はどんよりと曇ってて、昼間なのに薄暗い。
『ここから出してあげる』
昨夜のアスカの言葉を、俺は反芻する。
その場しのぎの言葉だ。なのに、心のどこかで俺は何かが変わるのを待ってる。期待なんて、しても無駄なのに。
「ヒナは何だか僕に似てる気がする」
急にアスカが沈黙を破るから、俺はビクリと身じろいでしまう。ルームミラー越しに俺を見る瞳には、全然濁りがない。
「だから、幸せになってほしいんだ」
「ああ、そう」
素っ気ない返事をしながら、溜息をつく。
無理なんだ。ここを出ても、俺は幸せになんてなれない。
住宅街の中にある、古びた一戸建て。その前に立って、俺は緊張しながらインターホンを鳴らした。
応答はない。この人は、いつも玄関から出迎えてくれるんだ。
引き戸が開いて、ひょっこりと皺くちゃの顔が見えた。
「ヒナくん、よく来たね。お上がり」
「こんにちは、清一郎さん」
丁寧で親切で、無口なおじいちゃん。今日が五回目の指名だ。
小さな頃に死んじゃった俺のじいちゃんも、生きてたら多分このぐらいの年だろう。
俺は清一郎さんの後に続いて、懐かしい匂いがする家の中に入っていく。
古めかしいけど手入れの行き届いた和室に通された。今日も清一郎さんはお茶やお菓子を出してくれる。
「今日も六十分でいい?」
俺の言葉に清一郎さんは黙って頷いた。六十分のコース料金と、指名料。使い古された革の小銭入れから、丁寧に折り畳まれた一万円札と千円札が二枚ずつ差し出されて、それを両手で受け取った。
座卓を挟んで向かい合う。沈黙が居たたまれなくて、熱い緑茶を一口飲んだ。
「えっと……何か、する?」
おずおずと申し出るけど、清一郎さんはただ首を振るだけだ。
いつもこうだ。清一郎さんは俺を指名して、自宅に通してくれる。そして、この和室で二人きりの一時間を過ごす。プレイはしない。それどころか、服さえ脱がない。
俺はこの時間が苦手だ。会話も続かないし、沈黙が重苦しくて堪らない。年も違い過ぎるし、何を話せばいいかわからない。
適当に身体で奉仕する方が、どれだけ気が楽だろう。そんなことを思う俺は、もう頭がイカれてるのかもしれない。
清一郎さんは奥さんに先立たれて、この家で独り暮らしている。仏壇の上に掲げられた遺影の中で微笑むおばあちゃんは、すごく穏やかな優しい顔をしてる。
清一郎さんは、一体何のために俺を呼ぶんだろう。
『それで救われる人だって、きっといるから』
不意にアスカの言葉を思い出す。風俗で救われるなんて、そんなのは幻想だ。俺はぬるくなったお茶にまた口を付けた。
「……清一郎さん」
思い切って名前を呼ぶと、皺の刻まれた顔がこちらを向いた。
「どうして、俺を指名してくれるの?」
年を重ねてるけれど、瞳は濁りなく澄んでる。清一郎さんは背が高いし、若い頃はもてたのかもしれない。
「最初は興味本位で。一人で、少し淋しかったからね。一緒に過ごしてくれる相手が欲しかった。でも、驚いたよ」
ひとつひとつ、ゆっくりと言葉を紡ぎながら、清一郎さんは俺の顔をじっと見つめる。
「ヒナくんは本当に似てるんだ。昔いつも一緒にいた幼馴染みに」
哀しげに揺らめく瞳をただ見てるだけで、なぜか胸が痛んだ。
清一郎さんは、その人に会いたいんだ。でも会えない。だから、俺を指名してくれてる。
「その人、今は?」
「結核で、若い頃に。隔離病棟に長く入院していたから、つらかったろうと思うよ。今だったらちゃんと治る病気なのになあ」
そう言って、少しだけ口角を上げる。すごく淋しそうな笑い方だ。その人のことが、本当に好きだったんだろうな。
「だからヒナくんといると、彼と一緒に過ごしてる気になってね。すまないね、こんな年寄りに付き合わせてしまって」
会えない人の面影を重ねたくなる気持ちは、俺もよく知ってる。
俺は立ち上がって、清一郎さんの傍に座った。肩先が触れるぐらいの距離だ。
「その人に、何て呼ばれてた?」
清一郎さんはびっくりしたみたいに目を見開いた。渇いた唇が遠慮がちに動く。
「……清ちゃん、と」
何十年も前に死んでしまった人の代わりになるのは無理だ。それでも、束の間でも夢を見させてあげたい。
両腕を伸ばして清一郎さんを抱きしめる。太陽の下で乾かしたシャツのような、すごく懐かしい匂いがした。
「清ちゃん」
どんな人だったんだろう。俺に似てるというその人。
きっと、もっと生きたかったに違いない。閉じ込められた籠の中から出て、自由になりたかった。好きな人と一緒に時間を過ごして、他愛もない話をして、笑い合う。叶わない光景を思い浮かべながら、ただぼんやりと窓の外を眺める。もう、ここから出ることはない。
その気持ちなら、俺にもわかるよ。
「清ちゃん」
何度も呼び掛けるうちに、清一郎さんの肩が小刻みに震えた。細い腕が俺の背中に回る。
「ありがとう……」
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