67 / 337
act.5 Caged Kiss 〜 the 3rd day 2
「ヒナくん、さようなら」
別れるとき、清一郎さんはスッキリした顔をしてた。いつも無愛想なのに、俺を見送る清一郎さんは陽だまりみたいに優しい笑顔だった。
「清一郎さん、バイバイ」
きっとこの人は、もう俺を指名しない。
常連さんが一人減ってしまった。それなのに俺は、すごく清々しくて満たされた気分だった。
「ヒナ、いいことあった?」
車に戻った途端、待機してたアスカにそう言われる。
「うん……まあね」
見てわかるぐらい俺は嬉しそうな顔をしてたんだろうか。
「次が入ってないから、一旦事務所に戻ろうか」
アスカの運転する車に揺られながら、俺は数ヶ月前のことを思い出す。もう何十年も経ったみたいに、遠く感じられる出来事だ。
『おにいちゃん、話があるの』
よく通る綾乃の声は、甲高いわけじゃないのに妙に頭に響く。
上京する前々夜。俺は、自分の部屋で最後の荷造りをしてた。
『何だよ、いきなり』
『前から言おう言おうと思ってて、気づいてないふりをしてた方がいいのかなって思ってたけど。でももうお兄ちゃんは向こうに行っちゃうし、やっぱり言っておこうと思って』
いきなり部屋に入ってきた妹からそんなことを言われて、俺は段ボールに荷物を詰める手を止めた。
綾乃の瞳がいつになくキラキラしてる。すごく嫌な予感がした。
『お兄ちゃんてさ、雄理先輩のこと好きなんでしょ』
唐突に投げられたワイルドピッチに、俺は露骨にうろたえる。
『……はあ?』
眉を顰めると、近づいてきた綾乃は俺の顔を覗き込んで笑った。
『顔、赤くなってるよ』
慌てて頬を押さえたけど、遅かった。
『だって、去年の今頃なんて雄理先輩にべったりだったのに、雄理先輩に彼女ができた途端、お兄ちゃんまで彼女を作り出したし。しかも、取っ替え引っ替えだし。そのせいで綾乃のお兄ちゃんは女癖が悪いとか、友達から超評判悪いんですけど』
『うるさいな。お前の友達に手は付けてないし、迷惑も掛けてないだろ。それにこの前別れて、今彼女とかいないから』
同じ高校に通ってるだけあって、その辺の事情には精通してる。駄目な兄貴として綾乃に対して申し訳ない気持ちはあった。
『しかも、雄理先輩と同じ大学受けちゃうとか。結局、追いかけてるじゃん。やっぱり好きなんだよね』
一気にまくし立てると、さも大事なことを言うかのように大きく息を吸って、綾乃は俺の両肩をガッシリと掴んだ。
『お兄ちゃん、雄理先輩に告白しちゃいなよ』
目が点になりそうだった。
『おい、バカ言うなよ』
『バカはお兄ちゃんだよ。だってお兄ちゃん、もう家を出ちゃうのに。私、雄理先輩とお兄ちゃんの恋路が気になって、このままじゃ夜も眠れないよ』
『じゃあ寝るな。ずっと寝るな。バカ綾乃』
『もう、お兄ちゃんの意地悪!』
頬を膨らませる綾乃はそれなりにかわいい顔をしてる。でも、性格にはかなり難があると思う。
『雄理先輩はさ、お兄ちゃんがすごく気になってるんだよ。だって私、お兄ちゃんのことをよく訊かれてたんだ。彼女とうまくいってるかとか、大学はどこを志望してるんだとか。この前お兄ちゃんが彼女と別れたときは、心配で私のところに電話があったんだよ。お兄ちゃんが落ち込んだりしてないか心配だって。そんなの直接言えばいいのに、全く素直じゃないよね』
『ちょっと、落ち着けって』
慌てて話を遮ったけど、矢継ぎ早にまくし立てられた言葉に俺がすごくびっくりしてた。
あいつ、いつの間に綾乃と連絡を取ってたんだ。
いや、それより、雄理が俺のことを気にしてる?
『私と繋がってることはお兄ちゃんには内緒って、口止めされてたんだけどね。とにかく雄理先輩はさ、絶対お兄ちゃんのことが好きなんだよ』
『そんなこと、あるわけないだろ。だって俺、男だし』
『ありまくりだよ。お兄ちゃんも雄理先輩のことが好きでしょ。それってもう両思いじゃん。相思相愛。違う?』
それは、絶対にない。
雄理と俺の仲はだんだんぎこちなくなって、卒業式の頃にはほとんど話すこともなくなってた。同じクラスの奴からも、喧嘩でもしたのかとよく訊かれた。でも、別に何もなかった。それが俺たちの自然な形だったんだ。
俺は自分のやり場のない気持ちを持て余してた。一緒にいればいろんな欲が出るから、距離を置けばきっと忘れられる。そう思ったから、一緒にいるのをやめた。あいつはあいつで、俺が避けてることで何かを察したのか、こっちに声を掛けてくることもなくなった。俺たちは、一緒にいないことが当たり前になった。
雄理は大学も早々に決まってたし、彼女もいたし、柔道も続けてた。俺がいない方が充実した毎日を送ってる。
そんな様子を遠目で眺めてると、やっぱり同じ時間を過ごすことを放棄して正解だったと思った。
それなのに俺はまだ、雄理のことを全然忘れられそうになかった。
『雄理が俺のことを好きなんて、ありえない。どっちかって言うと嫌われてると思う』
だけど綾乃は、俺の言葉なんて全然聞いてなかった。
『今のままお兄ちゃんと雄理先輩が同じ大学に行っても、どうせ何の進展もないでしょ。私が応援してるから、ここでちゃんと気持ちを伝えて、楽しいキャンパスライフを送りなよ。うまくいったらいったで幸せだし、ダメでも今より悪くはならないよ』
綾乃はわかったような口振りでそんなことを言う。
これ以上悪くなることはない。それは綾乃の言うとおりかもしれない。
俺たちは、こんなぎこちない関係のまま、同じ大学に進学するから。
俺は散々迷った末に、雄理が推薦入試で合格した大学を受けてしまってた。そこを受験したのは、オープンキャンパスに行ったときの印象がよかったからだ。だけど、雄理の推薦がそこに決まってなければ、受けていなかっただろう。
雄理も俺が同じ大学に行くことは知ってるはずだ。でも、俺たちは友達とも呼べないぐらい素っ気ない関係だから、お互いそんな話をすることもなかった。
そもそもあの態度で、あいつが俺を好きだなんて、あるはずもないのに。
『無理だよ。だいたい俺、別にあいつのこと好きじゃないし』
必死に否定してるのに、綾乃は聞く耳を持たなかった。
『あんなに女の子とバンバン遊んでたのに本命には奥手だなんて、お兄ちゃんってかわいいとこあるよね。私が応援してるから、意地張らないで勇気出しなよ』
『お前、なんで急にそんなこと言うんだよ』
ふふふ、と綾乃が笑う。
『そっと見守ってるのも楽しかったけど、二人は私の目が届かないところに行っちゃうんだもん。だったら私が背中を押さないと、ずっと平行線のままかなって。それに』
『……なんだよ』
ちょっと照れた顔が、かわいく見えた。
『お兄ちゃんに、幸せになってほしいから』
そうやって俺をからかってた綾乃のことが、すごく懐かしい。
今頃、どこにいるんだろう。
もう会えなくてもかまわない。ただ、無事でいてほしいんだ。
ともだちにシェアしよう!