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act.6 Platinum Kiss 〜 the 1st day 4

『お腹がいっぱいのときに叩かれると、吐いちゃうんだ。だから、余計怒られる』 『お前、バカじゃないの』 俺が歩み寄ると、幸也は顔を強張らせて後ずさる。その両肩を掴んだ途端、咄嗟にしゃがんで背中を丸め、頭を抱え込んだ。条件反射で出たその動きは、今までこいつが受けてきた痛みを言葉よりも雄弁に物語っていた。 俺は膝を付いて、幸也の顔を覗き込みながら話し掛ける。 『ここにはお前を殴る奴はいない。だからちゃんと食えよ。食って大きくなって、お前にそんなことをした奴を見返してやれるぐらい強くなれ』 強くなれ。 思えばそれは、強くなりたかった自分自身に向けた言葉だったのかもしれない。 ゆっくりと上がった幸也の顔が、こちらに向けられる。見開かれた目はみるみると涙を湛えて潤み出した。 『俺の両親は事故で死んだ。今はここが俺の家で、ここにいる人たちが家族だ。俺はそう思ってる』 どう慰めればいいのかわからなかった。だから俺は、空がしていたことに倣った。 ──大丈夫だよ、一海。 ここへ入所したばかりの頃、空がよく俺にしてくれていたように、細っこい身体を抱いてやる。肌が重なり合うぬくもりが心地いい。 『今日からお前も俺の家族だ』 小さく息を吐く音がして、腕の中の身体が震える。両腕を伸ばして、縋りつくように抱き返してきた。 『一海……ありがとう』 天井のあちこちに吊り下がった小さなシャンデリアが琥珀色の光をこぼして薄暗い店内を照らす。バーというよりラウンジに近い雰囲気の店だ。 入口に近いテーブル席で、俺はカクテルを片手にアスカと並んで腰掛けながら客の出入りを眺めていた。 革張りのカウチソファは男二人が座ってもまだ余裕があった。適度な硬さで座り心地がいい。 店の隅に位置するこの席は幾分か薄暗い。入ってくる客からは見えにくいだろう。 テーブルのひとつひとつがゆったりと配置されている。小さな声で話せば、他の客には聞こえない。 「早川瑛士。年は二十八歳、但し自称だ」 ここでターゲットを待ちながら、俺は相手の情報をアスカの脳裏に植え付けようとしていた。 「何をしてる人?」 手元の写真をじっと見つめながら、アスカが口を開く。 「職業は、相手によって変わる。医者だったり、実業家だったり、親の会社を継ぐ予定の息子のときもある」 俺の言葉にアスカは僅かに眉根を顰める。その姿からは匂うような色気が漂う。 「早川は詐欺師だ。女を騙して、結婚を仄めかしながら金をむしり取る。それが、こいつの仕事だ」 金を得るための手段を仕事と呼べるならの話だが。 上目遣いで俺を見ながら、アスカは手元のグラスに口を付ける。 その中身はトニックウォーターだ。どうやら酒が全く飲めないらしかった。 「……カズミさんのお姉さんも、この人に騙されたんだね」 アスカの言葉には答えずに、俺は話を続けていく。 「早川はつい最近騙していた女と切れたばかりだ。近づくタイミングとしては今が調度いい」 店内には少しずつ客が増えつつあった。アスカは静かな声で俺に問い掛ける。 「そんなに何人も騙してるのに、どうしてこの人は警察に捕まらないの」 その疑問はもっともだった。初めは俺も同じことを思ったからだ。 「結婚詐欺は立証することが難しい。その理由は、本当に恋愛感情があったのか、金を騙し取るつもりで恋愛を装ったのかというのは、客観的な区別がつけにくいからだ。それに、確かに最初から返す意思がないのに金を借りれば詐欺になるが、それでも返すつもりで借りたと主張されればおしまいだ。実際に、早川はいつも女から金を借りるという形を取っていて、ほんの少額ずつだが返していく。少しでも返していれば、返済の意思があると見なされる。つまり、詐欺にはならない。だが、警察を頼れない一番の理由は──」 俺が言葉を区切れば、アスカは澄んだ瞳に琥珀色の光を反射させながら俺を見つめる。 なんて強い吸引力だ。その魅惑の眼差しから、目が逸らせない。 「あいにく俺もきれいな生き方をしていないからだ」 俺は確信している。 見ているだけで吸い込まれそうなほどのこの美しさは、きっとあの男の理性を根こそぎ揺るがすだろう。 「……わかった。だから、僕だったんだね。女の人では駄目だった。僕ならこの人と関係を持っても傷つかないし、後腐れもない。子どももできない。適任だ」 俺はハッとする。アスカがひどく自嘲気味に笑ったからだ。 「大丈夫。仕事はきちんとこなす。あなたの期待に応えたい」 アスカは俺が渡したスマートフォンをズボンの後ろポケットに入れる。架空名義で契約した、飛ばしの携帯電話だ。 「──来たよ、一海さん」 入口に視線を向けると、早川瑛士が一人で店内に入ってきているのが見えた。このニヶ月間、湧き起こる激しい憎悪を必死に抑え込みながら、俺が追い続けてきた男。 会員制の高級クラブで女から搾取した金をばら撒いた後、一人でここへ来るのがこの男の習慣だった。 早川は俺たちの視線に気づく様子もなく、真っ直ぐに店の奥へと歩みを進めて、カウンター席に腰掛けた。 アスカが傍を通り掛かる店員を呼びとめて、注文を口にする。 「今来た人に、ギムレットを」 ギムレット。PLASTIC HEAVENでマスターが俺に出したカクテルだ。 こちらに視線を流したアスカは、うっとりするような笑みを浮かべながら桜色の唇を開いた。 「あの人、カズミさんに似てるね」 馬鹿を言うな。 俺がそう口にする前に、アスカはゆらりと立ち上がっていた。 「今夜は帰らない」 そう言い残して、振り向きもせずカウンターへ向かって歩いていく。 早川の隣の席に座りながら、何か言葉を掛けて妖艶に微笑んだ。 このわずかな時間で深い闇の底へと誘い込むために、アスカは蜘蛛の糸のように巧みに罠を張り巡らせていくのだろう。 午後十一時。計画は始まった。

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