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act.6 Platinum Kiss 〜 the 2nd day 1
「カズミさん」
ベッドからむくりと起きたアスカが、俺を見て目を見開く。
「何やってるの?」
「見ればわかるだろう」
問いかけに答えたところで、幾つまで数えたかを見失ってしまう。そろそろやめてもいい頃合いだ。
「……腹筋?」
寝起きのトレーニングを終えて立ち上がれば、きょとんとした表情で俺を見つめるアスカが目に入る。そんな顔からは、年相応のあどけなさが感じられる。
「昔からの日課だ。朝起きたときに少し身体を動かさないと眠気が覚めない。調子が狂うんだ」
身体中から汗がじわりと滲み出る感覚が心地よかった。
シャワーを浴びに行くために扉へと向かおうとすると、背後からアスカの声が聞こえてくる。
「そういえばカズミさんの腹筋、きれいに割れてたね。すごくいい身体だと思ってた」
その言葉で、昨日交わした情事が脳裏に浮かび上がる。
部屋を満たすのは、芳香なアスカの匂いだ。その身体から放たれる香りには、不思議な効力がある。
熟れた果実にも似た甘い匂いは、セックスのときは麻薬のように男の理性を溶かすのに、今は優しく俺の心を癒そうとしていた。
「カズミさん、ありがとう」
思いがけず礼を言われて振り返れば、アスカが立ち上がりこちらへと歩み寄ってくるところだった。その顔には優しげな微笑みが浮かぶ。
「僕が一人で寝られないって言ったから、目が覚めるまで傍にいてくれたんでしょう?」
「そんなつもりは……」
否定の言葉は最後まで紡げなかった。きれいに整った顔が近づいてきて、桜色の唇が俺のそれにそっと押しつけられる。
合わさる唇から流れ込んでくるのは、郷愁を誘う淡い記憶だ。
もう二度と会えない姉との想い出が、風に舞い散る花弁のようにチラチラと脳裏を掠めては消えていく。
「……朝ごはん、作るね」
そう言って扉の向こうに消えたアスカの残像を目で追いながら、俺はしばらくの間その場に立ち竦んでいた。
シャワーを浴びてリビングに入れば、パンの焼けるいい匂いが漂ってきた。
「ここに帰ってくるときにコンビニに寄って、適当に食材を買ってきたんだ。棚にあったコーンの缶詰を使わせてもらった。好きなメニューを言ってもらえれば、次からは事前に用意するから」
そう言いながらアスカは淹れたてのコーヒーをカップに注いでいく。
テーブルの上に置かれた大きな白い皿には、トーストとハムエッグが乗っている。大きなカップの中で湯気を立てているのは、鮮やかな黄色のスープだった。
──コーンポタージュだ。
「懐かしいな」
思わず口にすると、アスカが興味深そうな眼差しを向けてきた。
食事は一人分しか用意されていない。
「僕、朝は食べないんだ」
ダイニングチェアに掛けると、アスカも俺の正面に腰掛ける。
手を合わせてスプーンを取り、スープを一口飲んだ。優しい甘さが身体に沁み渡っていく。
「……うまい」
率直な感想を伝えれば、アスカはきれいな顔を照れたように綻ばせる。料理を褒められて素直に喜ぶその笑顔に、思わず魅入ってしまう。
「俺は姉と施設育ちで……そこで祝い事があると、なぜかこのスープがよく出た。誰かの誕生日や、新入りの子どもが来た日。入学式や卒業式もだ」
このスープがあの施設では幸福の象徴だった。
つまらない身の上話を口にすれば、アスカは少し目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。
「じゃあカズミさんは今、家族がいない。一人なんだね」
そうだ。だから、俺には失うものは何もない。
返事はしないままに、スープをひと匙掬ってアスカの口へと持っていく。
目を瞬かせながらこちらに向けてくる顔はあどけなく、年相応に見えた。
「少しでもいい。メシはちゃんと食え」
そう諭した俺をアスカは真顔で食い入るように見つめる。
昨夜あのバーで料理を頼んだときも、アスカがあまり食べていないことはわかっていた。
「ほら」
そう促せば、アスカはゆっくりと表情を緩めながら口を開く。
唇の間を割るように匙を差し入れて口の中にそっと流し込むと、こくりと飲み下した。
「カズミさん、優しいね」
アスカの瞳には、反射した朝陽の光が揺れていた。まるで涙を湛えているようだ。
「お前に倒れられると俺が困る。それだけだ」
精一杯突き放したつもりなのに、アスカは柔らかな微笑みを向けてくる。
こんな俺に全幅の信頼を寄せている。そう感じさせられるような、無防備な笑みだ。
「──ねえ」
どこか遠くを見るような美しい眼差しをしたアスカは、真っ直ぐに言葉を向けてくる。
「あと三日間で、僕たちは家族になれるかな」
高校二年生の春から空と始めた暮らしは、俺にとって慎ましくも楽しいものだった。
空は朝早く起きて二人分の朝食と弁当を作り、洗濯を干してから出勤する。そのまま夕方まで、時には夜遅くまで工場で働いて帰宅する。
俺は学校から帰れば洗濯物を取り込み、軽く掃除をした後で夕食を作って、勉強をしながら空の帰りを待つ。
互いに支え合いながらの生活は、時に些細な困難はあっても心の満たされる幸せなものだった。
空は最低限の服や化粧品しか持たない。欲しいものがないのだという。
切り詰めた生活をしているのに、俺には参考書を買って帰ってくる。
『一海はアルバイトなんてしちゃダメ。勉強に集中できないでしょう』
救急救命士になりたいという俺の将来の夢を叶えるために、空は全力で支えようとしてくれていた。
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