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act.6 Platinum Kiss 〜 the 2nd day 2

空は俺がアルバイトをして家計を助けることを許そうとしなかった。 救急救命士になるためには、消防士になることと国家資格を取ることが必須条件だ。 大学か専門学校で国家資格を取ってから、消防士の採用試験を受けて合格すること。それが、救急救命士になるのに最も堅実な方法だった。 『一海には救急救命士の国家資格が取れる大学へ進学して、夢を叶えてほしいのよ。せっかく学校の成績だっていいんだから、このまましっかり勉強していれば絶対に大丈夫。生活は私のお給料だけでちゃんとやっていけるから。ね?』 空にそう説得されてしまうと、強くは出られなかった。 受験を切り抜けて進学することになれば、授業料は奨学金を借りて何とかなる。大学生になれば、空も俺がアルバイトをすることに対して口を挟まないだろう。 俺が高校を卒業すれば、空をもっと楽にしてやれるんだ。 念ずるようにそう考えながら、俺は経済的に空に甘える日々を送っていた。 勉強に集中するよう口うるさいほどに言っていた空も、夏休みだけはアルバイトをすることをどうにか許してくれた。俺は短期で契約できる引っ越し屋や飲食店で働き、少しでも家計を助けようとしていた。 暮らしはけっして楽ではなかった。けれど空とニ人で生活できることが、俺の支えになっていた。 それが──次の冬を迎える頃だ。 『私、今の仕事を辞めようと思う』 ある休日の朝だった。 そう俺に切り出した空は、様子を窺うように上目遣いでじっとこちらを見つめてくる。 『どうしたんだ。何かあった?』 俺はそう訊きながらも、何となくいつもとは違う不穏な何かを嗅ぎ取っていた。 思えば少し前から空の様子はおかしかった。帰りが遅い日が続いていたし、化粧の仕方が随分と変わった。飾らない日常を装いながらも空が何かを隠していることを、俺は薄々感じ取っていた。 『私ね、夜に働こうと思う』 恐る恐るそう告げる空を、俺は訝しく思いながら見つめる。 『この間、街でお店の人に声を掛けられて……会員制のクラブなの。お客さんにお酌をして、お喋りするだけ』 『──空』 咎めようとする俺を制して、空は話し続ける。 『もう体験入店も済ませてきたの。やってみてわかったわ。私、何とかやれると思う』 それは相談ではなかった。真っ直ぐに俺を見つめる空の瞳に迷いは見えない。 空は既に全てを一人で決めてしまっていて、俺の意見など端から聞く気はなかった。 『慣れるまでしばらくは大変かもしれない。でも私、あんな華やかな世界も経験してみたい。お給料も今の仕事よりすごくいいのよ』 早口でそう言うと空は息を吸って、ひと思いに吐き出した。 『お願い、一海。私、自分の可能性を試してみたいの』 水商売なんてやめてくれ。喉元まで出掛かっている言葉を、俺は歯を食い縛って飲み込む。 空の瞳が、夜空に輝く一等星のように強い光を宿していたからだ。 弟の俺が見惚れるほどに、空は美しい。 工場で働き続けていつまで経ってもうだつの上がらない日々を送ることよりも、その美貌を活かして今の生活から脱することを空自身が望んでいた。 だから俺は、止めることができない。 『空がやりたいなら、やればいい』 やるせない感情を押し殺してそう言うのが精一杯だった。 『ありがとう』 緊張を解いて顔を綻ばせた空は、ゾクゾクするほど美しく、急に知らない人のように見えた。 それを境に俺たちの生活リズムは一転し、空はすっかり変わってしまった。 派手な服装を好むようになり、化粧が濃くなった。 夕方の早い時間に家を出て、美容院でセットを済ませてからクラブに出勤する。 帰宅するのは明け方だ。毎朝、俺は遠慮がちな玄関の解錠の音で目を覚ましてしまう。 空がクラブに勤めた初日、俺は心配で仕方がなく、一睡もできずに空の帰りを待っていた。 けれど強いアルコールのにおいを放ちながら帰宅した空は、玄関で出迎えた俺の顔を見た途端、罰の悪そうな表情をして視線を逸らした。 それを目の当たりにして、空が俺の迎えを望まないことがわかった。俺は待つことをやめなければならなかった。 それでも、どうしても夜明けのわずかな物音で目は覚めてしまう。 いつも俺は布団の中で空の様子をひっそりと窺う。 空はおぼつかない足取りで玄関からそのまま浴室へと直行し、軽くシャワーを浴びてから自分の部屋へと入り、布団に倒れ込む毎日を繰り返していた。 夜が明けて俺が登校する時間になっても帰らないことも度々あった。どうやら、店が終わってから客に付き合っているようだった。所謂アフターというやつだ。 同じ家に住みながら俺たちが顔を合わせる機会は極端に減った。 空の勤め先は、会員制の高級クラブだった。一見の客は入店できない、一等地にある有名な店らしかった。 俺の知らない世界で、空は夜に舞う蝶のように煌びやかに羽を広げていく。 『一海』 休日の昼下がり、おもむろに空から話を切り出された。 『私、ここを引っ越そうと思うの』 思えば空はいつもそうだ。俺に告げるのは、全てを決めてしまってからだった。 近いうちに空がそう言うだろうとは察していた。狭い家の中は、今や空の服や装飾品で溢れ返っている。こんな見すぼらしいところは、今の空には不服に違いなかった。 けれど次の一言で、俺の目の前は真っ暗になった。 『私、好きな人ができたのよ』 そう告げる空の瞳は、俺の心の闇に射し込むような無垢な輝きを放つ。それを目にした途端、心臓が射抜かれたかのように鋭い痛みを覚えた。

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