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act.6 Platinum Kiss 〜 the 3rd day 9

アスカは今まで何もかもを忘れるために男に抱かれてきたのだろう。 それが無意味なことなど、誰よりも自分自身が知っているはずなのに。 「カズミさん、好きだ」 救済を求めて口にする囁きが、吐息と共に唇を撫でる。 痛々しいほどにきれいな光を浮かべるその瞳を覗き込みながら、もう一度口づけようとしたその時──耳障りな電子音が、車内に鳴り響いた。 音を出しているのは、アスカに与えた携帯電話だ。 この番号に電話を架ける者は、俺の他にただ一人しかいない。 潮が引いていくようにアスカの身体が離れて、今までこの手にあった体温が奪われていく。 アスカはおもむろに後ろポケットへと手を伸ばし、俺の目の前で応答してあの男の名を呼んだ。 「もしもし、エイジさん」 受話口から微かに男の声が漏れ聞こえる。 「……うん、大丈夫。今から行くね。また連絡する」 手短かに電話を切ったアスカは、逸らしていた視線を再び俺へと向けて、真っ直ぐに見つめてくる。その顔には、もう先程までの痛みを引き摺った表情は浮かんでいない。 「カズミさん、あの人の家の近くまで送ってほしいんだ」 妖艶な瞳に熱を燻らせながら俺をじっと見据えて、アスカは唇を微笑みの形に結び上げた。 「ねえ。今日は、あれを使えばいいんだよね……?」 その言葉には、迷いなど寸分も含まれていない。 美しいカーブを描く頬に手を差し伸ばせば、目尻にうっすらと甘い色が滲んでいく。アスカの瞳には獲物を捕らえる光が浮かんでいた。 「ああ、頼む」 俺は悪魔に違いない。 そうでなければ、ここまで傷ついている者にこんなことをさせられるはずがなかった。 幸也から持ち込まれる仕事を引き受けて報酬をもらうことで、俺は一人で暮らしていく分には何不自由ない生活を送っていた。 そんな折、全く音沙汰のなかった空から電話が架かってくる。 禁忌を犯して空を抱いたあの夜から、二年が経っていた。 あれ以来の連絡に迷った挙句恐る恐る応答すれば、耳元で小さな溜息が聞こえてきた。 『一海、よかった。出てくれて』 子どもの頃から変わらない、鈴の音のように澄んだ声だった。心からの喜びが滲み出ているのがわかった。 『元気にしてた?』 『ああ、元気だよ』 自分が普通に答えられたことに、俺は安堵する。 あの夜が幻であったかのようだ。久しぶりに連絡を取った血の繋がった姉と弟として、俺たちは言葉を交わしていた。他愛もないことを一通り話した後で、少しの沈黙が続く。 『一海、あのね。今日は報告したいことがあって電話したの』 一旦言葉を区切って、空は意を決したように続けた。 『私、結婚しようと思ってるの』 その言葉は少しずつ解きほぐれてきていた俺の心に真っ直ぐと突き刺さる。 目の前に拡がる世界が音を立てて崩れていく錯覚がした。 『お店のお客さんなんだけど、すごく優しくて、本当にいい人なの』 そう言ってから、俺の反応を探るように言葉を続けた。 『一海は、私のたった一人の大切な家族よ。だから、祝福してほしいと思ってる』 なんて残酷なことを言うのだろう。 空の中で、二年前のあの日のことは完全になかったことになっていた。互いの幸福のために、不都合な過去を封印するつもりなのだろう。 唇をきつく噛みしめる。無意識に呼吸を止めていたことに気づいて、腹の中に溜まっていたものを一度吐き切ってから、大きく息を吸った。 次の一息で、空が欲しがっている言葉を血を吐く思いで口にする。 『よかった、俺も嬉しいよ。おめでとう、姉さん』 それ以来、空から時折電話が来るようになった。 近況に織り交ぜて、結婚するという相手の話を挟み込んでくる。俺にそいつの話をしたくて仕方がないことは明らかだった。 その男が早川瑛士という名であること。空より三歳年上で二十八歳だということ。親族が経営する精密機械メーカーで勤務していること。 会いたくもない男の話を聞かされながら、俺は空虚な気持ちで相槌を打つ。 『あの人の気持ちがわかるの。とっても淋しい思いをしてきて、だからこそ他人の痛みがわかる優しい人よ』 両親を早くに亡くしているというその男に、空は自分の境遇を重ねているらしかった。 『今住んでるマンションは、処分しようと思ってるの』 空は唐突にそんなことを言い出した。 『ここは酒井さんに買ってもらったでしょう? だから、瑛士さんを呼ぶわけにはいかないしね』 変に律儀なんだな。 そう思いながら、俺は気のない返事を繰り返していた。 俺が空のためにできることは、幸せを願うことだけだ。だから、これでよかったんだ。 そうやって自分を納得させることで、俺は空の弟を演じようとしていた。 『エイジさん』 部屋の灯りを全て消して、俺は息を殺しながら耳を澄ませていた。 小さな端末から聴こえる会話に、全神経を集中させる。 『今日はいいものを持ってきたんだ』 アスカは淡々とそう切り出す。その手に何を持っているかを俺は知っていた。 『ねえ……これを飲んだら、すごく気持ちよくなるんだって』

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