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act.6 Platinum Kiss 〜 the 3rd day 10 ※
アスカがあの男に見せているのは、小さな錠剤が並んだシートのはずだ。それはあらかじめ俺が与えたものだった。
『いや、アスカ。俺はそういうのは……』
『大丈夫だよ、エイジさん。僕も同じものを飲むから。ほら』
小さなアルミ箔の裂ける音が聞こえた気がした。実際には幻聴だったのかもしれない。
『一緒に気持ちいいこと、しよう……』
濡れたリップ音の中に次第に吐息が混じりだして、なし崩しのセックスへとなだれ込んでいく。
想像しただけで頭がおかしくなりそうだ。なのに俺はひとつひとつの音を聴き漏らすことなく拾い、その情景を思い浮かべる。
異変を感じたのは、行為が始まってしばらく経ってからだ。
『は……、あっ、エイジさ……ッ』
色を帯びた声が次第に苦しげになり、切羽詰まった喘ぎとなって鼓膜を刺激していく。
『ああ、もっと、もっと……ッ、ん、あァッ!』
上擦った悲鳴と共に、濡れた音が一層大きく跳ね上がった。
『アスカ、いいよ……おいで』
『あっ、ぁ……ッ、ひ、あ、ああァッ』
内蔵から引き摺り出されるような声があがった。
アスカの様子がおかしいことに気づいた途端、俺の鼓動は向こうに聴こえるのではないかというほど大きく鳴り響く。握りしめた掌に、じっとりと嫌な汗が滲み出ていた。
アルミシートの錠剤。
幸也に用意してもらったあの催淫剤には、そこまで強い効き目はないはずだった。
肉を打ち付ける卑猥な音に、激しい息遣いが絡まっていく。
『ああ、アスカ……愛してるよ』
『ん……エイジさ、エイジさん……っ、あ、あぁっ』
喘ぎ混じりに啜り泣く悲痛な声が部屋に響き
渡る。
『や……、いや……ッ、あ、あ……ッ』
瞼の裏に浮かぶのは、水族館で見たあの美しい泣き顔。
淋しげな光を浮かべる瞳から涙をこぼしながら、今はこの男に必死に抱かれているのだろう。
何もかも、俺が仕組んだことだ。
──駄目だ。もういい。もう。
「やめてくれ……!」
飲み込み切れずに喉元までせり上がった言葉を、とうとう吐き出してしまう。
荒い呼吸音が、しんとした部屋に響いていた。醜く腐敗した遣り場のない憤りが身体の中を廻っている。
頭を抱え込んでいた両腕を降ろし、力任せに拳を膝へと叩きつけた。
「……最低だな」
大声をあげる直前、俺はアスカに繋がる通話を切ってしまっていた。
いろんな感情が湧き上がっては頭の中で不確かな渦を巻き、消えたかと思えばまた現れる。
空のこと。幸也のこと。あの男への憎しみ。
そして──。
眠ることもできず、時間の感覚がないままリビングのソファに掛けていると、ローテーブルに置いている携帯電話のディスプレイが突然光りだした。
最小にしているはずの着信音が部屋に響いて、過敏になった聴覚を刺激する。
手に取って無言で応答すれば、耳元で吐息混じりに弱々しく名前を呼ばれた。
『カズミ、さん……』
今にも消え入りそうな声だった。その痛々しさに、胸が締めつけられる。
『ごめんなさい……さっき、降ろしてもらったところに……』
──迎えに来て。
途切れ途切れに紡がれる言葉に、いても立ってもいられず部屋を飛び出していた。
窓の外では、真夜中を飾るイルミネーションの光が生き物のように揺らめいては流れていく。
気が気でないままがむしゃらに車を走らせて、夕暮れ時にアスカを降ろした路地に辿り着いた。
テナントの空きが目立つ寂れた雑居ビルの前で、うずくまる人影が目に入る。
「アスカ!」
慌てて車から降りて駆け寄れば、座り込んで俯いていたアスカがゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
今にも泣きそうに潤んだ虚ろな瞳が、俺の顔を映し出す。
「カズミ、さ……」
屈み込んで抱き起こそうと脇の下に両腕を差し込んだ途端、ビクリと大きく身体を仰け反らせる。
「あ、あ……ァっ」
小刻みに震える身体を抱えて立ち上がれば、熱い吐息が耳に掛かった。
「まだ……薬が抜けてないのか」
頷く代わりにしなだれて持たれ掛かるその肢体は、燃えるような熱を放っている。
この薬は比較的効き目が弱いと、幸也は言っていた。だが、アスカにとってはそうではなかったらしい。
力の抜けた身体を支えてどうにか助手席に押し込んでから、俺も運転席に乗り込んだ。
とにかく、早く家に連れて帰らなければいけない。
路地を縫うように車を走らせて、幹線道路に出た。
速度を急激に上げて車の疎らな道路を駆け抜ける。気が気でなくて横目で様子を窺うと、アスカはぐったりと身体をシートに預けながら、浅く短い呼吸を繰り返していた。
「前にも……こういう薬を、飲んだことが、あって」
掠れた声で、途切れ途切れにそんな告白をしてくる。
「人よりも、弱いんだ。 迷惑かけて……ごめんなさい……」
こうなるとわかっていてそれでも飲んだのは、それが俺の望んだことだからだ。
フロントガラスの向こうに広がる空を見つめながら、胸の内のわだかまりを吐き出そうと深く息をつく。
苦しげな息遣いと芳香が車内に充満していた。
いつもより濃く漂うその香りに、俺は気づく。
ああ、アスカの身体が熟れているんだ。
唐突に、金属の擦れる音がした。
「──おい」
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