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act.6 Platinum Kiss 〜 the 4th day 3

訝しげな顔をして口を開こうとする男に、俺は畳み掛けるように言葉を続ける。 『姉と連絡が取れなくなって……精神的にかなり滅入っているようでした。今もこの部屋の中にいるかもしれない。無事かどうかをどうしても確かめたいんです』 何とか信用してもらおうと、ただ必死だった。 ズボンの後ろポケットから財布と車のエンジンキーを取り出して、男の手に強引に押し付ける。 『身分を証明できるものならここに入ってる。一刻を争います。あとで警察にでも何でも突き出してくれればいい。お願いします』 男は俺の目をじっと見つめる。 こんな高級マンションに住んでいるだけあって、その佇まいからは品の良さが感じられた。 『……入りなさい』 落ち着きを含んだ言葉に、思わず安堵の息が漏れる。 『ありがとうございます』 礼を言った俺は男の後に続いて上がり込み、脱いだ靴を手にして奥へと進んでいく。 『──あなた』 男の妻らしき女性が常夜灯の点いた部屋から出てきた。困惑した表情を浮かべながら、こちらに歩み寄ってくる。 『大丈夫だ。お前は部屋に入ってなさい』 短いやり取りからは、夫婦が互いに思いやる様子が感じられた。 きっと二人で色々なことを共に乗り越えてきたのだろう。今自分が置かれているこの状況とはあまりにも違う。そんなことにさえ、胸が痛みを覚える。 リビングに面したベランダで靴を履き、空の住む部屋の方へと進んだ。そこには、二戸の部屋を隔てる白いパーテーションが立ちはだかっていた。 目の前に書かれた文字が目に飛び込んでくる。 ──非常の時は、ここを破って隣戸へ避難できます。 『すみません、必ず弁償します』 後ろにいる男に声を掛けて、返事を待たずに薄いボードを勢いよく蹴り込んだ。 大きな音がして、白い破片が派手に飛び散る。足に全力を込めて、何度も繰り返し蹴破っていく。 人ひとり通れるほどまで広がった穴を、俺は屈んで潜り抜けた。 空の部屋に面するベランダからガラス越しにリビングを見通す。灯りが消えていて真っ暗だった。 掃き出し窓を力一杯引けば、軽やかにレールが滑って動いて、思わず安堵の溜息が漏れた。窓の鍵が開いているということは、空がこの中にいる可能性が高いと思ったからだ。 『空!』 呼び掛けながら中に入って辺りを見渡す。けれど人影は見えない。 リビングの扉を開けて、暗い廊下に出る。確か右手が寝室だったはずだ。 唐突に、そこで空を抱いたときのことが脳裏に浮かぶ。 ──もうここへは二度と来ない。 そう別れを告げたのに、まさかこんな形でその二度目が来るとは思ってもいなかった。 忌々しく思いながら寝室の扉に手を掛けて押し開けると、部屋の灯りは消えていた。右手を伸ばして照明のスイッチを押す。 煌々と灯るダウンライトの眩しさに目を細めながら室内を眺めるが、空の姿はなかった。 どこかへ行っているのか、それとも──まさか。 嫌な予感を抱きながら、バスルームへと向かう。 脱衣所の灯りを点ければ、磨りガラスになったバスルームの扉の向こう側に何かが見えた。 それは、こちらに持たれ掛かって座り込む裸の人影だった。 『空……!』 引き戸の取っ手を持って開けようとすると、ずるりと重いものを引き摺る感覚があった。ぞわぞわと肌が粟立ち、得体の知れない恐怖が全身に広がっていく。 身体の内側から震えが悪寒のように湧き起こって止まらない。 何かが引っかかって動かない扉を力づくで開けて、俺は目を見開く。 取っ手にタオルを括り付けて首を吊っている、濡れた小柄な肢体。涙の跡が残るその顔は、間違いなく空のものだった。 あどけなく幼い寝顔は、泣き疲れて眠ってしまった子どものように見えた。 床に落ちているのは、携帯電話と血のついた剃刀。左手首には幾つもの小さな傷が折り重なって血が滲み、細い筋を作りながら流れ落ちていた。 初めは手首を切ったのだ。けれど、死に至るほどの傷を付けることができなかったのだろう。 空、怖いのならどうしてそこで引き返さなかった? 『空……、空』 呼び覚まそうとするのに、情けないぐらいに小さな声しか出ない。 何ひとつ身に纏っていない痩せた身体はひどく濡れていた。 両脇の下に手を入れて抱きかかえながら、取っ手に括り付けられたタオルを外す。力の抜けた身体はひどく重い。まだ温もりのある身体を、その場にゆっくりと横たえた。 久しぶりに会う空は変わらず美しく、その顔は涙の跡を残しながらも安らかだった。 もう、呼吸をしていない。 小さな顎を持ち上げて気道を確保してから、俺は小刻みに震える手で携帯電話を取り出し、救急に通報する。 応答した相手に対して、淡々とこの状況を説明する。こんな時なのに、俺の声はひどく落ち着いていた。 目の前で起きていることが他人事のようで、まるで現実味がない。自分の身体から魂が抜け落ちて、遥か遠くからこの状況を見下ろしてる。そんな感覚がした。 通話の相手にAEDがないことを伝えれば、心肺蘇生の方法を指示される。 『やり方はわかります。早く来て下さい、お願いします』 テキストどおりの心肺蘇生法だ。鼻を摘まんで口づけて、息を吹き込む。胸の間に手を重ねて、何度も強く押し込んでいく。こんなに細い身体だから、肋骨が折れてしまうかもしれない。 俺の荒い呼吸だけが、狭い空間の中で虚しく響いていた。本当に呼吸をしなければいけない人は、息を吹き返してくれない。 俺のたった一人の家族は、穏やかできれいな顔をしていた。まるで眠っているようだ。 ──頼むよ、空。生きてくれ。 目を覚まして、ちゃんと幸せにならなくちゃ駄目だ。 俺は空が幸せになるためだったら自分の気持ちなんて押し殺して、どんなことだってするよ。

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