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act.6 Platinum Kiss 〜 the 4th day 5

もしも過去へ遡ることができれば、何かが変わるのだろうか。 息絶えるより先に、空のもとへと駆けつけることができていれば。このマンションで空と一緒に住むことを選んでいれば。空が夜の世界で働くと言ったときに、全力で止めていれば。或いは──幼い頃に起きたあの事故の夜、俺が両親を救えていれば。 どの仮定を選んでも、その先の未来をうまく想像することができない。 あの男がいなければ、空はきっと今も生きていたのだろう。だからこそ俺は、滾る憎しみの矛先をあの男に向けている。 けれど本当のところ、長い歳月をかけてじわじわと空を死に追いやったのは、俺自身のような気がしてならなかった。 アスカと二人で幾度も練習を繰り返すうちに、この聡明な青年は頭の中で自分の為すべきことを確実にイメージできたようだった。 「もう一度だけ、寝室を確認しておきたいんだ。すぐに済むから、少し待ってて」 家を出る寸前、玄関先でアスカはそう言って踵を返し、一人で寝室へと入って行った。 チャンスは一度きりだ。タイミングを図り間違えれば、全てが無になる。失敗は決して許されない。だから、こうしてアスカが慎重を期して行動するのはありがたいことだった。 言葉どおり時間を置かずに戻ってきたアスカは、廊下に立つ俺に艶やかな笑顔を向けてくる。 「うまくやれるよ。カズミさんはここでただ待っていてくれればいい」 そう言って軽く背伸びをするアスカと、唇が触れるだけのキスをする。 ふわりと鼻を掠めるのは、官能的な花の匂い。理性を狂わせるこの香りは、獲物を前にすると一層強く(くゆ)るのだ。 閉じていた目をうっすらと開けて、アスカは真摯に見つめてくる。身も心も全てを俺に委ねている、そんな顔だ。 俺が死ねと言えば、躊躇いもなく生命を棄てるのだろう。その忠誠心が怖いとさえ感じる。 むしろ、アスカはその瞬間を待ち望んでいるのではないか。四日間の契約を結んだ者が、自分を破滅へと導くことを願っている。 アスカはこの世界から消える大義名分を欲しているのかもしれない。 冷たい指先が迷うように俺の手の甲を掠め、ゆっくりと離れていった。 「カズミさん、あとでね」 そう言ってアスカは俺に背を向けて扉を開ける。 空気に溶けてしまいそうなその後ろ姿を見届けてからも、罪の意識はやまなかった。 『僕の家で、エイジさんに見せたいものがあるんだ』 携帯電話から愉しげなアスカの声が聞こえてくる。車の中で二人は他愛もない会話を交わしていた。 『今日は家に誰もいないから、ちょうどいいと思って』 アスカは俺との約束どおり、あの男をこのマンションまでおびき寄せることに難なく成功しているようだ。 あの男はアスカに骨抜きになっている。こんな甘い誘いを断るはずもなかった。 『エイジさん。あなたは、誰かを愛したことがある?』 アスカの問い掛ける声が、カーステレオから流れるバラードの美しい旋律と絡まっていく。 憎い男はしばらく黙り込んでから、おもむろに切り出した。 『……アスカ、俺は人を愛することができないんだ』 『どうして?』 しばしの沈黙の後、男は低い声で言葉をこぼす。 『犯罪者だからだ』 そんな戯言を簡単に口にするこの男に反吐が出そうだった。 『そう。それなら、僕もだよ』 叱られて泣きじゃくる子どもを優しく宥める。そんな穏やかな口調だった。その声を聞くだけで、アスカの淋しげな薄い微笑みが見えた気がした。 『罪を犯したから、人を愛せない』 罪人が向かう先は、この世界の深淵だ。 もうすぐ、何もかもが終わる。 寝室の壁一面に造りつけられた大型クローゼットの中で、俺は息を潜めてその時をただ待ち続けていた。 身体の中で鼓動が大きく響いて、このわずかな隙間から漏れ聞こえてしまうのではないかとさえ思う。次第に息が詰まってきて、苦しさを紛らせるために一度だけ大きく息をついた。 この日のために、俺はここまで準備してきたんだ。失敗は絶対に許されない。 クローゼットからすぐに出られるよう、わずかに開けておいた隙間に目をあてて寝室を覗き込む。 きっちりと締めた厚いカーテンとクイーンサイズのベッドが一部分だけ見えるようになっていた。 「こっちだよ」 アスカの声と共に扉の開く音がして、緊張感に息を飲む。 次の瞬間、アスカと男の姿が視界に飛び込んできて、心臓が大きく跳ね上がった。 俺の視界に入る位置へと、アスカが故意に男を誘導したに違いない。 俺は空の言葉を思い出す。 ──ここは酒井さんに買ってもらったでしょう? だから、瑛士さんを呼ぶわけにはいかないしね。 そんなことを生前の空は言っていたが、どうやら早川瑛士は本当にここへ来たことがないらしい。そのことに、俺は心底安堵していた。 「エイジさん」 アスカはしどけなく男の首に両腕を絡ませてキスをねだる。男を見つめるその表情は艶かしく扇情的だった。 二人が濃厚な口づけを交わすのを、俺は息を殺してただ見つめている。 アスカは少しずつ巧妙に罠を張り巡らせてあの男を仕留め、俺のもとへと差し出してくるのだろう。どんなに胸が痛くとも、俺はその一部始終をここで固唾を呑んで見届けなければならない。 微笑みながら互いの服を脱がせ合う様子は、仲睦まじい恋人同士のようだ。 全裸になった二人は、もつれるようにベッドへと倒れ込んで身体を弄り合う。わずかな時間さえ惜しむ性急なキスと愛撫を繰り返すうちに、熱に浮かされて掠れる声が耳に届いた。 「エイジさん、昨日の薬……」

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