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act.6 Platinum Kiss 〜 epilogue 2
一旦区切ってから、幸也は吐息のように言葉をこぼす。
「一海と違ってね」
思わぬ矛先を向けられて、反射的に言い返してしまう。
「どういうことだよ」
「空が一海に特別な想いを抱いていたのは、何となくわかってた。一海は空や僕の気持ちにずっと気づかなかったよね。だけどその鈍さに僕たちは救われてたのかもしれない。絶対に気づかれてはいけないと思ってたから。僕も、そしてきっと空も」
淡々と語る幸也の表情は慈愛に満ちていて、俺は言葉に詰まる。
呑むタイミングを失ってしまったグラスを見つめると、琥珀色をした液体の中で細やかな気泡がキラキラと立ち昇っていた。
ああ、お前は空と俺のことを誰よりも近くで見ていたんだ。
家族同然に皆で過ごした遠い日々にふと想いを馳せる。
あの時お前はどんな思いでホームに残り、出て行く空と俺を見送ったのだろう。どんな思いでホームから飛び出し、極道の男に身体を委ねたのだろう。
幸也を抱いたときに目にした艶かしい肢体と、背中を覆うように刻み込まれた烙印を思い浮かべる。
お前はもう、何にも怯えてはいない。脆弱だった少年は、俺の知らないところで必死に生きる術を探り、美しさと強さを秘めた青年に成長した。
俺の顔をじっと見つめながら、幸也はおもむろに言葉を口にする。
「一海もよくわかってると思うけど、僕は相当悪いことをしてきた。組に迷惑の掛からないような罪を幾つか洗い出して、警察に自首しようと思う」
突然そんなことを言い出されて、俺は言葉を失う。
「そろそろ、組から足を洗いたい。笠原さんが新しい人に興味を持ってる。もう潮時だ」
そう言って、幸也はテーブルの上で手を組み替えた。
新しい人とは、幸也と同じポジションに代わる者を指すのだろう。
「こんな生活、どの道長くは持たないと思ってたんだ。タイミングとしてはちょうどいい。むしろ、今しかないと思う」
微笑みを浮かべたその顔に迷いは見えない。俺を映す瞳には、有無を言わさぬ強い意志が表れていた。
「駄目だ」
咄嗟に手を差し伸ばして細い手首を掴めば、幸也は驚いたように目を見開く。振り解こうとしたその手を強く引き寄せると、幸也は瞳を潤ませて俺を見つめた。
「大丈夫だよ、一海」
詰めていた息を細く吐き出すようにそう言ってかぶりを振る。以前会ったときよりもほんの少し伸びた前髪が、さらりと揺れた。
「何かキッカケがないと無理だ。塀の中で過ごしているうちに、あの人は僕のことなんてすっかり忘れてしまうだろう。僕自身も少し疲れたんだ。だから違う場所で一からやり直して、生まれ変わりたい。刑務所なら俗世間から離れられるからちょうどいい」
俺の手にもう片方の手をそっと掛けて引き離し、今にも泣きそうな顔を向けてくる。
「幸也……」
その人生を賭けて得たものを手離そうとしていても、幸也は生きることを諦めてはいない。
「そんな顔をしないで、一海」
無理に作られた笑顔は痛々しく、胸が締めつけられる。もう幸也は俺の前に姿を現わす気がないのかもしれない。
そう思うと居ても立ってもいられず、思わず口走っていた。
「じゃあ、お前が出てくるときは迎えに行くよ」
咄嗟に出た言葉は、自分でも予期せぬものだった。
幸也が面喰らった顔でまじまじと見つめてくる。その表情はいつもより幼く見えて、子どもの頃に戻ったような気がした。
「そんな……迷惑が掛かるよ。僕はこんなヤクザ者で、犯罪者で……」
詰まらせた言葉の語尾は、戸惑いに消えていく。
「それはお前から仕事をもらってた俺だって変わらない。せめて戻ってくるのを待ちたいんだ。だって」
もう一度握り締めた華奢な手は、ほんのりと温かい。そのぬくもりは俺の心まで沁み渡り、奥に閉じ込めていた何かを引き出していく。
それはきっと、親愛の情だ。
「お前は俺の、家族だから」
自然と口からこぼれた言葉に、幸也はぽかんと俺を見る。その瞳がみるみると潤んで、涙が溢れ出した。
強く力の込められた手を、俺はしっかりと握り返す。
「ありがとう、一海」
消え入りそうに微かな声で囁きながら、幸也は空いている手をグラスに掛ける。
乾杯を促されて、俺も気泡の消えたグラスを手に取りそっと傾けた。
「僕たちのこれからに」
幸也は涙を流しながら柔らかな微笑みを向けてくる。
それは、昔と変わることのないあどけなさを残した笑みだった。
清々しい青空から穏やかな陽射しが降り注ぐ。陽の光を浴びて白く光る御影石の向こうには、鬱蒼とした緑が見えていた。
人ひとりいない丘は神聖さを感じさせるほどに美しく、そこに生える草木の色が鮮明に目に映る。
街から離れているのが少し不便だが、それでもここで見られる景色は何にも代え難いものだ。
どこまでも澄み渡る広い空の下で、俺はそっと手を合わせる。
この墓で、俺の肉親は仲睦まじく眠っている。
墓標に刻まれた享年を確認して、あの事故で亡くなったとき両親はまだ三十歳代前半だったということに改めて気づいた。
そんな若さで生命を落とさなければならなかった二人のことを思えば、えも言われぬものが込み上げてきて胸が痛くなる。
「父さん、母さん。空のことをよろしくお願いします」
そっと口にしてから手を合わせ、俺は心の中で語りかける。
──空。父さんと母さんにはちゃんと会えたか?
二人は大人になった空を見てきっとびっくりしてるだろうな。これじゃあ親子じゃなくて、まるできょうだいだって。
もしかしたら、自ら生命を断ってしまったことを叱られてるかもしれない。
それは俺が空を守ってやれなかったせいだって、ちゃんと言えばいいよ。
俺もすぐにそっちに行くつもりだった。でも、もう少し足掻いてみるよ。
やり直せると信じたいんだ。それを俺に教えてくれた人がいるから。
俺も誰かを救える人間になりたい。
墓地を出ればそこには青々とした草原が広がっていた。俺は子どもに還ったかのように大地に背を付けて寝転がる。
夜になればここからきれいな星空が眺められるだろう。
けれど、俺はもう知っている。目には見えなくても、この青空の向こうには確かにあのプラチナの煌めきが存在することを。
『一海、愛してる』
耳に届くのは、鈴の鳴る音に似た美しい響きの声。誰かに捧げる祈りのような、浄らかで優しい声音だ。
「俺も愛してるよ」
目を閉じてゆっくりと草の匂いを吸い込むと、何かが舞い降りてきて傍に近づく気配を感じた。
手を差し伸ばせば柔らかな陽射しのぬくもりが覆い被さり絡みつく。
天と地の間で、俺は空と抱き合いながら、あの頃と同じ夢を見る。
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