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act.7 Angelic Kiss 〜 the 1st day 12

ゆっくりと呼吸するような、リラックスした声だ。ハルカがきちんと身体を委ねてくれていることに、俺は満足する。 「それを言うなら、ハルカもね」 甘い匂いを放ちながら突然俺の目の前に現れた、初恋の人と同じ顔のハルカ。 この世界に存在するのはハルカと俺だけで、ここは二人だけの楽園なんだ。このかわいい人を、このままここに閉じ込めておきたい。馬鹿みたいな考えだけど、俺は真剣にそう思っていた。 「仕事、辞めたって言ってたけど。何してたの?」 不意に投げ掛けられた質問に、俺はいつものようにおざなりに「コームイン」と答えかけて、口を噤む。ハルカには何もごまかす必要なんてない。 「刑事」 「……刑事さん?」 「そう。刑事っていうか、捜査はしてるけど正確には刑事課じゃないんだ。少年事件を担当してる」 いつの間にか現在形で喋ってることに気づいて、慌てて訂正する。 「いや。担当してた、だな。もう辞めたんだから」 「そうなんだ。大変そうだけど立派な仕事なのに、何だかもったいないね」 「立派なんかじゃないよ」 だから辞めたんだ。 ゆるりと力の抜けた身体は抱き心地がいい。ハルカの身体は俺の抱き枕にちょうどいいように作られているんじゃないか。そんな気さえしてくる。 「さっきの電話はね、職場の後輩から。俺の書いた辞表を上司が手元で止めてるから、帰ってこいって言うんだ。でも俺はもう戻る気なんてない。このまま出勤しなけりゃ、皆すぐに諦めるだろうしね」 ハルカが俺の上で小さく身じろぐ。掌に触れる背中にほんの少し力が入った。 「辞めてほしくないって、皆から思われてるんでしょ。なのにどうして辞めるの」 「……つまんない理由だよ。聞いてくれる?」 「うん、聞かせて」 俺は今日会ったばかりのハルカにすっかり甘え切って、自分の抱えるものを曝け出していく。 所轄の生活安全課少年係。 それが俺の所属してる部署だ。 ハルカ、俺ね。子どもの頃から刑事になるのが夢だった。ヒーローに憧れてたんだ。単純だろ? だから、警視庁の採用試験を受けて、大学を卒業すると同時に警察官になった。 いろんな分野の中で少年警察を目指した理由は、もっと単純。 俺の好きだった人が、子どもが大好きでさ。それに影響を受けて、俺も子どもが幸せになれるような仕事がしたいと思ったんだ。そう。その人が、ハルカにそっくりなんだよ。 少年法の目的は、少年の健全育成と非行少年の矯正だ。これだと思った。初めは俺にもちゃんと志があったんだよね。 でも、少年係で事件捜査に携わっていくうちに、だんだんそういう熱い気持ちを持てなくなってきた。 もちろん、素直な子が出来心で罪を犯すケースだってたくさんあって、そういう子を正しい方向に導いてやるのはそこまで難しいことじゃない。 でも、身勝手な理由でタチの悪い犯罪に手を染めるような悪い奴らは違う。その子よりも親がどうしようもないっていうケースも多い。育ってきたプロセスに問題があるんだから、それを更生させるのは、生半可なことじゃない。 あいつら、悪いことをしてもちょっとの間鑑別所や少年院に入ったら、すぐに出てくる。で、凝りずにまた悪さをする。その繰り返しだ。 こっちは一生懸命あいつらと向き合ってるつもりなのに、伝わらないんだ。ありきたりな言い方だけど、理想と現実のギャップだな。とにかく思いどおりにいかないことがやりきれなくて、いつの間にか俺はモヤモヤした気持ちを抱えたまま仕事をするようになっていた。 無駄なことをしてるっていう虚しさ。だから俺は、悩むことを放棄した。報われないなら意気込まずに最初から適当にこなせばいい。俺にとって少年係の仕事は、金を稼ぐためだけにこなすルーティンワークになってた。それでもいいって思ってたよ。自分の中ではきちんと割り切れてたから。 そんなときに、あの事件が起こった。 二ヶ月位前にあった、十三歳の中学生が授業中に同級生をナイフで刺し殺した事件。ニュースでもよく流れてたし、ハルカも聞いたことぐらいはあると思う。少年たちが住んでいた地域の名前を冠して、その事件は大きく報道された。 あれね、うちの管轄で発生した事件だったんだ。 『あいつは生まれ変わりたいと僕に言ってきた。だから、殺した』 それが殺した側の少年Aが逮捕当時、捜査員に対して語った犯行の動機だった。 真面目にそんなことを言ってるんだ。正気の沙汰じゃない。 だから、彼には精神鑑定が必要だということになった。今も鑑定留置に掛けられているし、結果が出るにはまだ時間が掛かるだろうね。 今はだいぶんほとぼりが冷めたけど、当時のマスコミの騒ぎ方ときたら、本当に大変だった。 殺したAの家と殺されたBの家が、普段から家族ぐるみで付き合ってたっていう背景も話題になった。でも、マスコミが囃し立てたのには大きな理由がある。 犯行をした少年Aの年齢が、十三歳だったからだ。 聞いたことがあるかもしれないけど、十四歳未満は犯罪に触れる行為をしても、責任能力がないと見なされる。つまり、その子の行為は犯罪にはならない。少年法ではそれを触法少年っていうんだ。 触法少年は刑事責任を問われない。どれだけ悪いことをしても法廷で裁かれることはないから、当然刑罰を課せられることもない。 つまりこの国では、十四歳未満の少年が人を殺しても、罪にはならない。 あの事件で、うちの署はもう大忙しだよ。社会的に反響が大きければ、その事件は極端にデリケートなものになってしまう。だから、ただ機械的に事件の捜査だけをすればいいってわけじゃない。

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