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探偵と刑事と報復・一△

 スーツのジャケットを着こんだあと居間のソファにブリーフケースを立てかけ、しゃがんで靴紐を結んでいたエドワード・ウィルクスは、扉が開く音に気がついて顔を上げた。  一か月と半月前ほど前に結婚した、十三歳年上で同性のパートナーであるシドニー・C・ハイドがふらりと部屋に入ってきた。ウィルクスは紐を結び終えると素早く立ちあがり、いつものようにきびきびと「お帰りなさい」と言った。ハイドはうなずく。というよりかは、頭ががくっと垂れたようだった。  このとき、居間の時計は午前十時十四分をさしていた。午前休のウィルクス刑事はふだんよりゆっくり起きて、ゆっくり食事をして煙草も吸ったあと、身づくろいをして早めに出掛けるところだった。そんな彼は、当然ハイドがついさっき帰ってきたものと考えた。八時に起きたときに覗いてみたが、年上のパートナーは自分の寝室にいなかったし、昨夜八時過ぎに生業としている私立探偵の仕事で出掛けていったときと同じ格好をしていた。  ハイドはグレーのカーディガンにサックス・ブルーのボタンダウン・シャツを身につけ、それに白いコットン・パンツを履いて、足元は黒いローファーだった。黒いトートバッグを引きずるように持っている。ウィルクスは反射的に、職業的な癖で相手の衣服に乱れがないか目を走らせていた。多少シャツがよれっとしていることを除けば、乱れはない。ふだん、スーツはほとんどを着ないハイドだが、今はやや改まった格好だ。  ウィルクスは視線を靴から上に向けて、ハイドと目があったとき、ふとこんなことを思いだした。 「この前、図書館で風俗嬢のインタヴューが載っている記事を見かけて読んでみたんだ。客の中には、女性器ではなく後ろで行為に及びたい男もいるらしい。彼女もリクエストに応えてそっちですることがあるらしいんだ。『全然なんとも感じないけど、男はイイらしいわ。感じてるふりしてれば向こうが勝手に気持ちよくなってイってくれるから楽』って言ってたよ。それで思ったんだ。たしかに、女性でも後ろで感じる人はいるだろう。でも、やっぱり根本的に、アナルは男の性器なんだなあって」  実験観察の結果、これまでの常識を覆す世界の法則を発見した。そんな科学者のように目を輝かせて言ったハイドに、ウィルクスは「なに考えてるんですか」としか言えなかった。呆れると同時に、やたらと真剣な顔のパートナーに圧倒されてしまう。しかも、ハイドがそう口にしたのはこれから行為に入ろうかというベッドの上においてで、ウィルクスは言葉の生々しさに急に恥ずかしくなってしまい、ぶっきらぼうになるより他なかった。  急にそんな一昨日の夜のことが思いだされたのは、ウィルクスが敏感だったからだ。行為に入るときの寝室の雰囲気や、パートナーが発情していることを本能的に感じとっていた。  ……しかし、ウィルクスは意識の上ではそれに思い至らない。ぼんやりして扉の前にたたずんでいるハイドを見て、少し心配になった。 「ハイドさん、具合悪いんですか? なんだかぼーっとして……目が、おかしいですけど」  ハイドは大きな右手をぺたりと自分の額に押し当て、つぶやいた。 「ちょっと熱っぽい……かな……」  いつもよりさらに声が低くて聞きとりにくかったが、ウィルクスは目を細めてうなずき、整った凛々しい顔つきをやや曇らせた。ちらりと腕時計を見る。 「まだ時間には余裕があるんです。熱、測り終わるまでここにいましょうか?」  一瞬うなずきかけたが、ハイドはそうしなかった。額に当てていた手を下ろし、目を凝らすように目元に力を入れる。それを見ていたウィルクスは、やっぱり目つきがおかしいなと思う。熱にうかされて、ふだんは聡明に輝いている目がどろりとしている。彼がパートナーに歩み寄ろうとすると、ハイドはぴくっとして片足を一歩引いた。 「大丈夫」そう言った声は乾いている。「熱はひとりで測れる。もう、仕事にいきなさい」  でも、と言ってそばに寄ろうとしたウィルクスに、ハイドは目を伏せて「大丈夫だから」と言った。いつも快活でにこにこしているパートナーのことを思いだし、ばかばかしいと思いながらも、ウィルクスは胸に湧き起った不安を無視できなかった。妙に無表情なハイドの顔を見つめて尋ねる。 「もしかして……どこかを刺されてるとか、撃たれてるとか、ないですよね?」  そのときハイドは初めてかすかに微笑んだ。 「大丈夫だよ。どこも怪我していない。きみが仕事から帰ってきたときも、ぼくは変わらずここにいるよ」  不安は少し消えた。しかし大部分は吹き散らせない黒雲のようにウィルクスの胸に残った。彼はブリーフケースを持つとハイドのそばまで寄っていって、そっと手を額に当てた。ハイドはわずかに顔を逸らそうとしたが、首に力を込めて留まった。手を押しつけて、ウィルクスは安堵する。皮膚が放つ熱は思ったほどではなかった。せいぜい微熱くらいだろう。 「でも、ちゃんと熱を測って寝ててくださいね」  そう念押しするとハイドはうなずいて、「いってらっしゃい」と言った。だるそうだということ以外はいつもとなんら変わらなかった。ウィルクスもいつものように「行ってきます」と応える。刑事は扉のところから振り返ってちらりとパートナーを見たあと、背筋を伸ばして颯爽と出掛けていった。  太い息をつくとハイドはソファまでよろめき、膝をつくようにそこに腰を下ろした。バッグを足元に落とす。動悸が激しく、胸が苦しい。汗がにじんで舌が口の中に貼りつく。皮膚も筋肉も血も燃えているようだ。  彼は低くうめいたあと、ひざまずくようにソファの中でじっとしていたが、やがてのろのろとカーディガンを脱ぐとそれを床に捨てた。それから手を伸ばし、コットン・パンツの上から脚のあいだに触れる。快感が火を噴き、激しい飢えが掻きたてられた。力を込めて身をもたげた頭を掴むと、痛みに似た悦びが噴出する。渇望は彼の肉体の内側で逆巻き、拳で壁をどんどんと叩いて、解放してくれと叫んでいた。  脇や頭皮にじっとりと汗が滲んでくるのを感じながら、ハイドは前屈みになったまま、パンツのボタンを外した。燃えあがる欲情と肉体の反応に駆り立てられて、意識はどこか遠のいていく。内側から身をもたげたもののため、パンツの前は張っていた。ゆっくり、苦労しながらジッパーを下ろす。黒いボクサー・パンツの中心はすでに染みだした先走りで濡れていた。  彼は下着の内側に手を入れ、中のものを握った。快感が弾け、手の中のものがさらに凝固する。ハイドの表情も鋭さを増し、喉の奥から熱い呼吸が漏れる。彼は手を動かした。  脳裏に、さっき別れたばかりの青年のことを思い描きながら。 ○  それから十分後、忘れ物をとりに戻ってきたウィルクスは居間の扉を開けて、驚いた。ハイドが体の右側をソファの背もたれに押しつけ、扉に背中を向けてうずくまっている。一瞬、具合が悪くてへたりこんでいるのかと心配になった。丸くなっている大柄な背中を覗きこみ、そっと声をかける。 「シド? ……具合、悪いんですか? 病院行きますか?」  ハイドは振り返らなかった。ウィルクスはますます不安になり、背中を撫でるか撫でまいか躊躇している。シャツに滲みはじめた染みでハイドがびっしょり汗をかいているのがわかり、きっと高熱が出ているんだとウィルクスは思った。  喘ぐような呼吸の音がしている。はっはっという速い呼吸は、獲物を追いかけて全力疾走している狼のようだ。そのとき、ウィルクスの脳裏にふと記憶の花が開いた。聞き覚えのある呼吸だ。これは、一昨日の夜も、このひとはベッドで。  一瞬混乱したウィルクスに、ハイドの声が聞こえた。 「忙しいのか、エド」  振り返りもせずにつぶやいたハイドに、ウィルクスは思わず腕時計を見た。 「忙しい……といえば忙しいですが、でもあと二十分くらい時間はあります。USBを取りに帰ってきたんです。付き添うのはむりですけど、医者を呼ぶならおれが……」  ウィルクスが口をつぐんでもハイドはなにも言わなかった。逞しい肩がぴくっと震える。ウィルクスはブリーフケースを床に置き、通勤用のメッセンジャー・バッグは背負ったままでハイドのほうにかがみこんだ。 「助けてほしい」  唐突にハイドがつぶやいて、ウィルクスは身をこわばらせた。過去の嫌な記憶が脳裏を走る。  ハイドは自殺をはかろうとしたことがある。だが、それほど追い詰められているときですら、年上の恋人が「助けてほしい」と口にしたことはなかった。ウィルクスの顔がさっと青くなる。しかし、行動もまた素早かった。彼はハイドの肩を両手でぎゅっと抱き、後ろから抱きかかえるようにして、「なんでもします」と心から言った。  ハイドはしばらく無言だった。苦しそうに息をしながら頭を垂れていたが、ふいに振り向いてウィルクスを見た。青い瞳はうるみ、膜が張ったようにぼやけている。それなのに、普段は穏やかな目は完全に据わっていた。飢えた狼のように。その目を見た瞬間、ウィルクスは気分が悪くなるほど興奮した。口の中が渇く。大好きな相手のむせかえるような色香は、まるで神経毒のようだった。  ハイドは有無を言わさぬ力強さでウィルクスの手をつかみ、彼を自分の正面に引き寄せた。ウィルクスはハイドに向かい合った形でよろよろとソファにしゃがみこみ、視線を下に向けた途端、声が漏れていた。 「う、うわ……」  自分の発した声を自分の耳で聞いて、「間が抜けている」と冷静に思うと同時に、下腹部に熱と力がこみあげるのを確かに感じる。視線を下に向けたまま、逸らせない。ハイドの脚のあいだは、凶暴なほど力を増して屹立している肉の塊で占められていた。カーテンは閉めているが、電灯で明るい午前十時半の居間では、赤黒く濡れているものがますますグロテスクで卑猥に見える。そして卑猥であればあるほど、ウィルクスは興奮する。  自分のそんな傾向に潜在下で気がついている彼は、しっかりして潔癖な自分を守るために眉を吊り上げて目を泳がせた。しかしハイドに手をしっかり握られ、さらにその手を昂ぶっているものに押しつけられる。 「うわ」  ウィルクスの手は火にかけたやかんに触れたように跳ねたが、ハイドにがっちりとつかまれているため逃げようがない。ぬるぬるしてる、と、見た段階で心づもりしていたことを触って実感し、ウィルクスはかっと赤くなった。 「助けてくれないか」  身をかがめ、上目遣いになったハイドが焦点の合わない目と低くかすれた声でささやいた。 「苦しいんだ」 「み、見てわかります」  思わずそう言って、ウィルクスは体を固くした。手のひらに触れているものが熱く、硬すぎるうえときどき脈打つ。そのせいで激しく動揺し、兆しはじめた欲情で頭の中が一瞬白くなる。汗が噴きだし、体がほてりはじめた。ウィルクスの目は泳いだが、しかし一瞬しっかりハイドと目が合う。そこに浮かんだ苦痛と泣きそうにうるんだ目に、ウィルクスの胸はきゅっと痛んだ。  おれは処女か? いや、ちがう。それにこのひとは結婚相手だぞ。もう何回もセックスしてる人だ。大丈夫。全然、怖くない。こんなにでかくなっているところは久しぶりに見たけど。でも、おれにだって付いてるものなんだ。そう自分に言い聞かせ、ウィルクスは唇を噛んだあとゆっくり息を吐いた。それからやや強面の面立ちを緊張させ、まるで職務のときのように鋭い目でハイドを見つめる。 「わかりました。助けます。ちょっと待っててくださいね」

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