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探偵と刑事と翌朝

「はい、スコットランド・ヤード刑事部のジョサイア・ハーパー刑事ですが」 「あ、ハーパーか? おはよう。ウィルクスだ」  受話器の向こうでハーパーはしばし沈黙したが、すぐに納得がいった。 「おはよう、ウィルクス。風邪引いたのか? 声が全然ちがう」 「風邪かはわからないけれど……まあ……そうかな」  ウィルクス刑事の口調はあやふやだった。 「なんだかすごくしんどそうだな」いつも機嫌とノリがいいハーパーは、年下の青年のことを気遣った。「休みの連絡か?」 「あ……、うん。そう。すまないけれど今日、休むから」 「大丈夫だよ、急ぎの仕事もないし」 「もし呼び出しがあったら、体がましになってたら行くから」 「むりするなよ。今日一日くらいロンドンは平和でありますように、ってきっとハイドさんが祈ってくれるさ」  結婚相手の名前が出て、ウィルクスは力なく笑った。 「じゃあお大事にな、ウィルクス。ゆっくり休めよな」  静かに受話器が置かれると、ウィルクスもスマートフォンを持つ手を下ろした。いつも凛々しく整った彼の顔は、今朝は色が悪くどんよりして、ふだんは鋭い目も濁っていた。顔を上げるとハイドと目が合う。 「休みの連絡、できたのか?」  心配そうに覗きこんでくる年上の男の薄青い目を見返して、ウィルクスは黙ってうなずいた。  彼は今、上半身をむきだしにしてベッドのヘッドボードによりかかっている。腰から下も同様の状態で下着すら身につけていないが、そこは薄いリネンの掛布で覆ってあった。  ハイドはそっとベッドに腰を下ろした。彼はすでにシャワーを終えたあとで、コットンの黒っぽいTシャツにチノ・パンツを身につけ、サボタイプのサンダルを履いている(ゴミを出してきたのだ)。探偵はパートナーの浮かない顔を見て、気遣うように言った。 「ぼくが電話したほうがよかったかな?」  ウィルクスは首を横に振る。それからハイドをじっと見上げ、口を開いた。 「だって、重病でもないのにあなたに職場へ掛けてもらうなんて、悪いですよ。そ、それに……病気ですらない。あなたとセックスしすぎて足腰が立たないなんて理由で仕事を休んでしまったし、そのうえ自分で電話もしないなんて社会人として失格です!」  そうまくしたてたウィルクスの声はかすれてがらがら、ときおり裏返り、傷んで音が飛んだレコードのようだった。しゃべり終わって間ができた瞬間、彼は痛々しいほど赤くなった。ハイドが身を乗りだしパートナーの肩を抱こうとすると、ウィルクスはぎこちなく背筋をのばしてそれを避けた。  ハイドも負けていない。肩は抱けなかったが、頭を撫でる。茶色い短髪をよしよしと撫でるとウィルクスはあからさまにぶすっとした。ものに動じず包容力抜群、おまけに世慣れたこの探偵はまったく気にしなかった。頭をそっと撫でながらささやく。 「すまないエド、ひどくしすぎてしまったな」  夫の優しい気遣いをウィルクスは跳ねのけた。頭を撫でられたまま、ほとんど睨みつけるようにハイドを見る。 「別に、あなたのせいじゃない。おれだって、その……た、愉しんだんですから」 「でも足腰が立たなくなるとは思わなかったよ」 「おれも思いませんでした」  怒った顔で言うウィルクスにハイドは微笑みかける。 「何回くらいしたんだっけ?」 「よ、四回くらい……です」 「そんなにしたっけ? よく性欲と体力がもったなあ」  感心した顔で言うハイドを見て、ウィルクスは無性に夫の頬をつねりたくなった。そう、あなたはとてもとても元気だった、と言いたくなる。ゆうべはなんであんなに頑張ったのか、自分でもわからない。その結果、朝起きたハイドはとても清々しそうだったが、ウィルクスはトイレにも行けなくなった。  本当に行けなくなったのだ。ウィルクスはとても情けない気分で、強い自己嫌悪に苛まれながら思い返す。目が覚め、全身がだるかった。でもそろそろ出勤の用意をしなければいけないし、トイレにも行きたい。  重い体を引きずりながらベッドから降りようとして、床に脚をついたところで膝ががくがくした。嘘だろ、と思って足に力を入れようとするが、入らない。それでも降りようとしたら膝からくずおれそうになった。  真っ青になり、ベッドから左足だけ出して硬直しているウィルクスを見つけて、ゴミ出し帰りのハイドはとても驚いた。どうしたんだと尋ねると、ウィルクスは呆然とした顔で「立てない」と言った。 「トイレに行きたいのに」  そこでハイドがウィルクスを抱えあげ、手洗いまで連れて行った。便器に座らせてあげるとウィルクスはまだ呆然としていた。  そんなつい十五分前のことを思いだして気分がよけいに沈んだが、ウィルクスは果敢な性格だった。掛布を跳ねのけ、もう一度左脚を床に下ろし、力をかけて立ちあがろうとしてみる。さっきよりも力が入り、もしかしてと嬉しくなったが、結局また膝からくずおれた。  ハイドは慌てて抱え起こした。 「むりしないほうがいいよ。今日はゆっくり寝ていたほうがいい」  ウィルクスは信じられないという目でハイドを見上げる。 「あなたはなんともないんですか?」 「んー、ちょっと腰はだるい気がするけど。でも、元気だよ。なんならもう一発くらいはいける」  唇に微笑をたたえ、微動だにしない瞳で自分を見つめる夫の目に、ウィルクスはぷるっと震えた。 「も……もう、嫌です」 「そうだね」ハイドはにこっと笑う。「明日愉しくエッチするために、今日はゆっくりして。きっと仕事の疲れもあったんだよ。そうだ、きみを使い物にならなくした責任をとって、今日はぼくがどこでもきみの行きたいところに連れていくからね」  その言葉とともに頭をくしゃくしゃ撫でられて、ウィルクスはぶすっとしたまま、それでも反論を飲みこむ。  明日するなんて言ってませんけど。  だが、結局黙ってうなずいた。反論する気力はなかったし、喉が痛かったし、明日になったらきっとまたしたくなる気がした。  その日、ハイドは自分で言ったとおりに責任をとった。  シャワーがまだだったウィルクスをバスルームに連れていき、ついでに体を洗う手伝いをした。スポンジを持つ腕がだるい、とウィルクスが情けなさそうに言ったからだ。 (なぜ腕がだるいんだろう? そう考えてハイドは気がついた。三度目のとき、ちょっとむりな体位をさせてしまったからな……)   それから服を着替えるのを手伝った。ボクサーパンツを履かせてやり、ジーンズを履かせる。そのあいだにウィルクスはお気に入りのTシャツに袖を通していた。そのあと抱きかかえて手洗いに連れていき、朝食。なにがしたい? と尋ねたら「居間のソファで本が読みたいです」と答えたので、ウィルクスをソファに座らせてやった。  はじめは行儀よく座って本を読んでいたウィルクスもだんだんと体勢が崩れ、ソファに寝そべったりうつ伏せになったり。最終的には横になって爆睡していた。  目を閉じ、長い茶色の睫毛を伏せて、浮きあがった頬骨に窓から射しこむ光が当たっている。肩や胸は安らかに上下していた。  ハイドはソファの中のパートナーを覗きこんで、それから仕事机に腰を下ろした。昼までにつくらなければならない書類がある。ノートパソコンを起動させて、もう一度ソファのほうを振り向いた。  身を投げだしてこんこんと眠る年下の男を見て、まるで自分だけの生き物みたいだとハイドは思った。

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