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探偵と刑事とエロスへの愛
「今週は今日からエロス強化週間!」
突然に年上のパートナーが宣言して、エドワード・ウィルクスは呆気にとられた。酔っているのかと思ってパートナーが飲んでいた赤いマグカップの中身を見ると、あたたかいカフェオレにすぎない。
ウィルクスは膝の上に広げた短編推理小説集、『ブラウン神父の秘密』をページに栞を挟むのも忘れてぱたんと閉じた。そして相手を見上げる。シドニー・C・ハイドは薄青い瞳を輝かせている。その目は「じゃあ、よろしくね」と言っていた。
なにがよろしくなのかわからない。
ウィルクスは冷静を保とうとした。そこで本を自分が座っているソファの右脇に置き、背筋を伸ばす。落ち着いて口を開こうとしたとき、隣のスペースにハイドがわざわざ本を持ち上げて腰を下ろしてきた。ウィルクスは彼のほうに顔を向けて、鋭い焦げ茶色の瞳に力を込める。
年上の男は陽だまりのように微笑むと、言った。
「きみは今日から三連休だし、ぼくも休みをとっている。明日の午後四時にはこの前ネットショップで注文した玩具が届くし、ゴムもローションも買い足してある。外に出かけるのもいいけどまだ暑いし、今週は家でゆっくりエッチしようよ」
ウィルクスは目を細めてパートナーを見た。ゆっくりと息を吸って、青い瞳を覗きこむ。あまりにも屈託のないその目は、しかし少年に例えるには初々しさに欠けていた。ウィルクスはじっとハイドを見つめる。ハイドも見つめ返す。
ふだんウィルクスは自分の威圧感ある凛々しい容貌を、刑事という職に活用してきた。今回も、彼はその凄みを遺憾なく発揮した。しかしハイドはむしろぼうっとして、パートナーを見つめているだけだった。ウィルクスは丁寧にはっきり言った。
「明日、うちの親父が挨拶に来るって言ったじゃないですか」
「えっ、あっ、そうだったっけ?」
ハイドは目を丸くして居間兼事務所の中を見回し、壁に貼られた数字だけの簡素なカレンダーを確認した。
「あ、確かに書いてある」
「まあ、親父が来るのは朝の十時半で、三十分もいないでしょうけど。午後からロンドンの某所で学会だそうで」ウィルクスはため息を押し殺す。「ほとんど絶縁状態だし、別に来ることないんですよ。おれがあなたと結婚したからといって」
「きみなんかにうちの息子はやれん、って言われたらどうしよう」
真顔になって表情を曇らせるハイドを見て、ウィルクスは困ったように笑った。手を伸ばすとハイドが握ってくる。「本ですよ」と言って、ウィルクスはパートナーから本を返してもらった。膝に乗せ、それから笑って言った。
「大丈夫ですよ。親父はおれが誰と結婚しようが、興味はないでしょう。……同性と結婚したということも、『そうか』で済ませてましたよ。ほんとは嫌なんじゃないかなとは思うけど。昔ながらの田舎に住んでるし、息子が男と結婚したことは、自分の患者にだろうと近所の人間にだろうと、言わないと思う」
「忘れてて悪かったよ、エド」
ハイドは大きな手で自分の半ば白髪になった黒髪を掻き上げ、謝った。
「四十にもなると記憶力は下り坂だな。それはそうと、お父様は『ご挨拶に』って言ってたはずだけど、なんの話なのかな? 結婚のご挨拶は、電話ではしたけど……。明日はなにか、きみの結婚に伴う法的な手続きとか、相続とか、そういう事務的な話を……?」
「病気にならないためにちゃんとゴムをつけろ、って講義しにくるんですよ」
ウィルクスはきっぱり言った。彼は本を自分の左隣にそっと置き、しばらく足元の白いスニーカーの爪先を見ていた。
そしてふいにパートナーのほうを向いた。ハイドはまたぼうっとした目でウィルクスを見つめる。冷房の効いた部屋で、ブラインドを下ろした大きな窓を背にソファに並んで座っていると、年下の青年は彼の目に、生きた彫像のように見えた。痩せた顔の浮いた頬骨に左手の中指の背で触れる。ウィルクスは目を伏せた。長い睫毛の奥の焦げ茶色の瞳は濡れて、透きとおっている。
ハイドはキスしようとした。ウィルクスはそのしぐさに気がついていないのか、わずかに身じろぎした。それからきっぱり言う。
「エロ強化週間はあさってからですね」
「でもそれじゃあ、きみは一日しか休みじゃないな」
がっかりしてつぶやいたハイドにウィルクスは優しい顔になる。ほんの少しだけ右側に身を乗りだしてささやいた。
「一日もあればじゅうぶんでしょう?」
「そうかな……。三日、だらだらいちゃいちゃセックスしたかったのに」
「三日もだらだらいちゃいちゃしたらおれたち、溶けますよ」
怒った顔で言ったウィルクスに微笑み返し、ハイドはソファの背もたれに体をあずける。両脚を伸ばし、長身で大柄な体をやや丸めて、またぼんやり年下の男の顔を見つめた。ウィルクスは鋭い目でまっすぐ前を見ている。それから、その目をすっとハイドに移した。
年上の男はきょとんとする。明らかにウィルクスはためらっていた。しかし、ハイドにはなぜだかわからない。ウィルクスは口を開け、閉じて、唇を結ぶ。ハイドがいつものように穏やかな、相手のことをゆったりと待つ表情をしているのを確認して、刑事は怒った顔のまま口を開いた。
「エロ強化週間って言いますけど、それってつまり、おれにエロいことをするってことですよね?」
年上の男はまたきょとんとした。それからこっくりとうなずき、「うん」と言ったが、その開けっぴろげな、なにひとつ疑いのない顔にウィルクスはかすかな腹立ちを覚えた。
貴族っぽいな、と彼は思う。今の貴族はどうか知らないが、とにかく昔の貴族。使用人が家と自分のために奉仕するのは、それが使用人の仕事だからではなく「彼らはそういうふうに生まれついているから」と認識している。そういう貴族的な疑いのなさがハイドの顔にはあらわれていた。
ほんとに名家の末っ子だもんな、とウィルクスは思う。昔だったら、処女のメイドに対する初夜権を持っているかもしれない。ハイドから感じとれるのは、セックスを完全に自分の意のままにできる、という男の(無自覚な)自信だった。
まるでセックスのエリートだ。
でもおれはエロいことをされるために生まれついたわけじゃない、とウィルクスは思う。
彼がじっと見つめると、ハイドはなんだか居心地悪そうにもぞもぞした。
「なにか、言っちゃいけないことを言ったっけ」
不安そうな顔になる年上の男に、ウィルクスの唇に微笑みがよぎる。ハイドのパンツの尻ポケットでスマートフォンが振動したが、彼は気がつかないかのようにウィルクスのことを見ていた。
「あなたはおれにエロいことをするつもりかもしれないけど」刑事は静かに言った。
「おれだってあなたにエロいことしたいんです」
「えっ……」
ハイドはつぶやいてまばたきし、首を傾げた。
「フェラしてくれるのか?」
「それなんですよね」
急にため息をつき、ウィルクスは長身の体を丸めた。彼は目を伏せたままぼやいた。
「フェラしてるのにおれがエロくなるのはなぜなんですか?」
「それはきみがエロいからだよ」
「説明になってませんよ。……あなたを責めたいのに、なんだかうまくいかない」
「だって、きみはフェラをすることによって感じてしまうからね」
目に見えない狼の耳と尻尾がハイドの頭と尻に出現していた。耳をぴくぴくさせ、尻尾を悦びでぱさぱさ振りながら、彼は彫りの深い顔立ちを輝かせる。
「顔がどろどろになって、フェラするだけでいってしまう。ぼくのアレを貪るきみの顔はどうしようもなくエロティックで性欲の塊だよ。上も下も洪水で……」
「ちがいます!」
ウィルクスは真っ赤になって目を吊り上げたが、なにがちがうのか自分でもわかっていなかった。彼は口走った。
「お、おれは、その……その、フェラが、す、好きなんです! ただそれだけです」
「うん」ハイドが身を乗りだし、ウィルクスの両手をつかんで熱っぽく言う。
「好きなんだよね、わかってるよ。好きなことをベッドでするのは愉しいし、健康的だ」
握る手の熱さに動揺し、ウィルクスはつかまれたままでますます赤くなった。それでももう一度訴える。
「ちがうんです! おれが言いたいのはそういうことじゃなく……。おれも、あなたにエロいことをしたいって言いたいんです。その、自分がエロくならずに!」
「エロいきみをもっと見たいな」
「……ハイドさん、目が……だんだん据わってますけど」
そう? と首を傾げて、穏和で優しい肉食獣はにこっと笑った。
「つまり」ウィルクスは息を吸う。大きな手につかまれて両手が汗ばんでくる。冷房の微風が渦巻いて、ハイドの肌と香水のにおいをあたりに漂わせている。それを振り払うように、きりりとした顔で刑事は宣言した。
「おれもいつか必ず、喘いでるあなたを見たいんです!」
「役割交代?」
小首をかしげるハイドにウィルクスはたじろいだ。手を離してほしくて動揺する。顔が真っ赤になり、耳まで赤くなっている自分に気がついて、彼はそんな己の軟弱さを呪った。ハイドはあくまで自分のペースを崩さない。
「辛抱強く準備したら、役割交代できるかもしれない」尻尾を振りながら狼は屈託なく言う。
「でも、前に試したが……やっぱり痛いんだよ。それに、ぼくはあんまり中じゃ感じないみたいだし。でも、慣れというのは大事だからね。少しずつ慣らしていけばもしかして……」
「なんでいつもそんなに余裕なんですか?」
ウィルクスの声は悲痛な絶叫のようだった。
「十五のとき、完璧に避妊に気を遣いながら年上の女性相手に初体験して、バツイチなだけはある」
生き生きした狼とは反対に、ウィルクスの頭に生えた犬耳と尻尾はしょんぼりと垂れた。ハイドは驚いて言った。
「きみ、自分がヴァージンなことを気にしてたのか?」
「……気にしてますよ。だっておれ、童貞なのに処女じゃないんですよ。一応バイなのに。……結婚する前に女性と寝るのが不道徳だとは言わないけど、でも、そういうことをするのが当然だとも思ってこなかった」
「きみはすごく真面目で、古風なんだな」ハイドはうなずきながら言った。
「素敵だ」
ウィルクスはきっとハイドを睨む。動揺した刑事はますます自分の軟弱さを呪った。彼はつぶやいた。
「ただ、男に関しては……その、おれも緩かったんです。妊娠は関係ないからとも思って……。とはいえ、男の恋人はあなたが初めてだった。その、寝たのも……」
「つまり、ぼくは正真正銘、きみの初めての相手なんだな?」
光栄だよ、と両手を握りしめ、真心を込めて言ったハイドを睨み、ウィルクスは破裂しそうな鼓動のまま切望する。今すぐに冷房の設定温度を二度下げたい。
ハイドは軽々と二人のあいだの距離を飛び越えた。がばっと抱きしめられ、ウィルクスは「うっ」と小さく声を上げた。黒いカットソーの上から逞しい胸に顔を押しつけ、窒息したかのように真っ赤になる。ハイドはパートナーの茶色い短髪を撫でて、後頭部を優しく抱いた。
「これからも大事にするからね、エド! 手始めにこれからのんびりと激しくセ……」
「セックスする前にあなたのエロさを見せてください!」
あなたの誠意を見せてください。浮気な恋人にそう懇願する乙女のような口調でウィルクスが言った。ハイドは抱きしめていた腕を緩め、体を離す。
急に冷えた空気が体にまとわりついてきて、寂しい、とウィルクスは思った。ハイドは様子をうかがう焦げ茶色の目を見つめ返し、どこか厳かにうなずいた。
「わかった、見せよう」
そう言うとソファから腰をあげ、ウィルクスの前を横切って壁につくりつけられた、天井まである本棚の前に立った。仕事で使う、死後硬直の変化を体系的に記した医学書、死体に巣食う昆虫を研究した法医学の本があるかと思えば、シャーロック・ホームズとエラリー・クイーン、ジョン・ディクスン・カーといった推理小説、趣味のピアノの楽譜、種々の拷問を記録した本や日本の春画本まで雑多に並んでいる。
ハイドはいちばん左の棚の上から三段目に手を伸ばすと、白い表紙のハードカバーを引き抜いてソファに戻ってきた。
ウィルクスが覗きこむと、白い表紙には優美に首をくねらせた白鳥が一羽描かれていた。黒字で浮きあがるようにタイトルが印字されている。『烈しく攻むる者はこれを奪う』。確か聖書の一節だったか。思いだそうとしたウィルクスは、作者の名前に注意を引かれた。
イヴ・ド・ユベール。
ハイドの大学時代の先輩で、フランス人の作家。あの洗練された性の匂いを放つ同性愛者。
膝の上で本を広げるとハイドはぱらぱら捲ったのち、手を止めて顔を近づけ、目を細めた。
「えーと……」(彼は四十一にして老眼である)「……『アンリの腰の窪みにジュストの唇が這った。彼らは絡みあう蛇のようにじっとしていた。汗ばんだ薄い皮膚は、かすかな身じろぎによる摩擦によってすら、破れてしまいそうだった。(中略)……ジュストの指は猛禽類の脚ではなかった。とても優しく這った。アンリの脚のあいだの茂みは濡れて蒸しており、年上の男はそこに……』、ええと、そうだな」
突然ハイドは前のめりになって本をしっかり持ち、読んだ。
「『そこがいいです、ジュスト……おれを自由にしてください!』」
ウィルクスは呆然と年上の男を見つめた。ハイドは気がついていない。心をこめて熱演した。
「『ああっ、いく、いってしまいます……!』しかし彼は……」
「ちょっ、待って、待ってください!」
ウィルクスはハイドに半ば覆いかぶさり、とり乱して止めた。ハイドはあまりにも気楽に、「どうかな?」という目をする。薄青い瞳をきらきらさせてパートナーを見ていた。
「なんでエロ本を朗読するんですか!?」
心臓が破裂しそうなほど高鳴り、皮膚がぴりぴりし、赤くなって声が上擦る。涙が出そうになる。ウィルクスは自分でも理解できないほど狼狽した。ハイドはパートナーの焦りようを見て、おれはまた、しないほうがいいことをしてしまったのかと不安になる。しかし彼はいつも通りの穏やかな表情でうなずくと、言った。
「ふだんなかなか喘がないから、せめて朗読で喘いでみようかと……」
「あなたはよく気のつく人なのか救いようのない鈍感なのか、わかりません」
「どうしてきみが恥ずかしがってるんだ?」
おろおろしながら本を膝の上で閉じ、手を差し伸べてきたハイドに、ウィルクスは眉を吊り上げてよそを向く。
刑事は目を泳がせながらぶっきらぼうに、「妙な気分になります」と白状した。ハイドの(狼の)耳がぴんと立つ。
「それは、そそられるってことか?」
「……そうです。無意味に煽らないでください。おれも男なんですよ。こっちの息ができなくなります」
「でもきっと、きみが喘いでいるのを聞いたときのぼくほどじゃないよ」
ハイドは妙に胸を張って言った。
「『いっちゃうぅぅ……っ!』って泣きながら痙攣して連続アクメしてるときのきみはそれはもう……だらしなく緩んだ顔でひいひい鳴いてる姿は言葉にならないほどエ……」
「おれのことはいいんです!」
ウィルクスは叫んだが、ハイドにふたたび抱きすくめられて抗議を飲んだ。大きな熱い手で服の上から背中を撫でられる。それからその手がじわっと下にまで這った。腰を撫で、肉の薄い尻をぴったりしたスキニーパンツの上から、揉むように撫でる。
耳のふちに唇が触れ、熱い息がかすめ、生きたにおいが鼻腔に触れる。低い、穏やかな声が一瞬の狂いのように上擦って、息とともに優しくささやく。
「きみは淫らだ。抱きたい」
体重を掛けられて、ウィルクスはゆっくり沈んでいく客船のようにソファの上に仰向けに倒れた。のしかかってくる男の体は重く、厚みがあり、肉は熱く、目は欲情に据わっている。彼は余裕を失くし、かすかに微笑んでいた。
そうだ。ウィルクスは思いだす。
おれを抱いているとき、この人はいつも、どうしようもなくエロティックだった。
うれしくなって、彼はそれを口に出そうとした。しかしできなかった。薄青い瞳は今、ウィルクスだけを見つめていた。
そしてユベールが書いた本の二人は、ハイドとウィルクスをモデルにしているということである。
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