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探偵と刑事とエスの心【電話篇】
朝の十一時二十分過ぎ。日曜日、パリのサン=ルイ島で暮らす作家のイヴ・ド・ユベールは目覚めたばかりで、書斎の大きな肘掛椅子に腰を下ろして、ガウンにくるまったまま物思いにふけっていた。
あの青年を帰してしまったのは惜しかった。とてもきれいで、歳に見合わず純情な子だったのに。少しだけ、誘ってほしそうな目をしていたのに……。そんなことをぼんやり考えながら、昨夜のパーティで深酒した痛手から回復しようと、熱く濃いコーヒーをすすっている。煙草はあまり欲しくない。日光をとりいれようとカーテンを開けていたが、秋に似つかわしくない陽光が気に障って、日差しを遮ろうと腰を上げかけた。
そのときテーブルに置いたスマートフォンが振動し、着信を告げた。ユベールは着信画面をちらっと見て、驚く。それから口元にニヤニヤ笑いを浮かべて、電話をとった。
「こんにちは、ユベールさん。ウィルクスです」
スマートフォンの向こうから歯切れのいい、しかしややかすれた若い男の声がした。ユベールは金色の髪を撫でつけながらにこやかに答える。
「こんにちは、ウィルクスさん。元気かい? ちょっと風邪気味?」
ロンドンはストランド街に暮らすウィルクスは、居間のソファの中で一瞬だけ目を泳がせた。
「あ、はい。きのうからちょっと。今、電話してて大丈夫ですか?」
「かまわないよ」
にこやかに答えて、ユベールはコーヒーをすする。電話の向こうの相手の姿を思い浮かべると心が愉しくなる。長身痩躯、茶色い短髪。黒にすら見える焦げ茶色の瞳は鋭く、整った顔立ちはいつもきりりとしている。それもそのはずと言おうか、二十七歳のこの青年はロンドン警視庁の刑事だ。
「時差も考慮に入れてくれて有難いよ」ユベールは脚を組み、スリッパを履いた爪先をぶらぶらさせながら上機嫌だ。「こっちはロンドンより一時間遅いはずだね。十一時前になんか起きていられないよ」
早朝の呼び出しに慣れているウィルクスだったが、ユベールのそのせりふを怠惰だとは指摘しなかった。ロンドンの居間で窓辺に置かれたソファに腰を下ろし、刑事はおとなしく話を聞いている。
しかしここで、ウィルクスは一気に切りこんだ。
「あの、ユベールさん……相談があるんですけど」
「相談?」
もう少し他愛ない雑談が続くと思っていたユベールは眉を上げ、口元に笑みを浮かべる。
「なんだい? おれでよければ話を聞くけど」
「あの……」
そうつぶやいて、ウィルクスの言葉は一瞬途切れたが、すぐにきっぱりと言った。
「ハイドさんのことなんです」
「そうだろうと思ったよ」
腰を上げて重いカーテンを閉めながら、ユベールがにやりとする。シドニー・クリス・ハイド。ユベールの大学時代の一年後輩。彼はカーテンの合わせ目を手で整えながら、かつて自分が愛を告白したこの後輩のことについて考えた。
あのときは、「ぼくは同性愛者ではないから」とおれの告白をすげなく断ったくせに、今は同性の相手と結婚している……。ユベールは肘掛椅子に戻ると、テーブルの上に置いたべっ甲縁のシガレット・ボックスを開けて煙草を取りだし、口にくわえながら言った。
「いったいどうしたんだ? あの男の甲斐性のなさに離婚したいって言うんなら、おれが引き取ってあげるよ」
「いえ、その……」
ウィルクスは言葉を切ってしばし沈黙したが、すぐに決意した。やや前かがみになった格好でスマートフォンをぎゅっと握りしめ、少し上擦った声で言った。
「あの人、その、最近ちょっと激しいというかサドっぽいんですけど、どうしたらいいんでしょうか?」
「は?」
ユベールは一瞬ぽかんとする。いつも穏やかで優しい笑みを浮かべる後輩のことを思いだし、煙草を吸おうとした手が宙で止まった。ウィルクスはスマートフォンの向こうで心もち赤くなっている。それでも、鋭い目はますます鋭くなって、居間の壁を睨んでいた。
しかしユベールはさすがに世慣れた男だった。
「あいつがサドっぽい、か。いつもへらへらしているけど、パートナーの前ではそういう顔を見せるのかもしれないな。そういうタイプの男かもしれない」
「そういうものなんでしょうか?」
やや不安そうにつぶやいたウィルクスにユベールは満面の笑みになる。煙草を吸いつけながら明るく言った。
「そういうタイプはいるよ。優しい顔で妻を大事にしながら、夜には暴力的な仕方で同じ相手を責める。それで、ウィルクスさん? シドは暴力的なのか?」
「DVではないんです」ウィルクスが慌てて首を横に振る。「暴力的ではありません。その、首を絞められたりとか、ひどい言葉を投げつけるとかいうのではないんです。あ……、その、最中にちょっと言葉で辱められることはありますけど……」
「あ、そう」ユベールは衝撃的な発言を努めてあっさり聞き流した。「きみはそれが嫌なのかな?」
「え……。あ、いや、いいえ……」
まごつく声を聞いて、ユベールは話が核心に入ったと判断した。いつもしっかりしている美男が明らかに動揺している声を聞いて、彼はウィルクスがひどく恥ずかしがり屋で照れ屋だということを思いだす。このまま電話で彼を辱めることもできる、とユベールはぼんやり思ったが、実行しなかった。きわめて親切に尋ねる。
「嫌ではない、と。なら、なにを悩んでいるのかな?」
「そういうのって、おかしいんでしょうか?」
「おかしい、とは?」
「そういう行為のときにサディスティックになるのは、おかしいですか?」
「それは個人の趣味というか、好みの問題だからねえ」
「異常とかじゃなくて、好み?」
「そう。要は二人のあいだで合意が成立していたら、問題はないんじゃないかな。それは二人の好みの問題だから。一方が嫌がっているのにむりやりするのは暴力で、いけないことだけどね。あくまでプレイとして愉しむのはふつうのことだよ。シドが意地悪しても、そういうプレイならウィルクスさんも愉しめそうかな?」
「プレイだって考えればいいんですか?」
「そうだな、プレイでSとMを役割分担するのと、行為の最中にサドっ気が出てパートナーをいじめてしまうのはまた別物だとは思うが……。シドはどっちのパターンかな?」
「……どっちかというと、後者です。あと、SMプレイらしいプレイはしてません」
仕事の指示を聞くように生真面目な態度で質問に答えるウィルクスに、エロスに慣れていないんだなあとユベールはしみじみ思う。ウィルクスはためらったが、さらに核心に入ろうとした。
「あの、ユベールさん、じゃあ……」
そこで言葉が途切れた。ユベールはよくよく神経を集中する。
壁を睨んでいたウィルクスは、突然その横の扉が開いたのでひどくびっくりしていた。
ハイドが部屋に入ってきた。濃い茶色のパジャマのパンツを履き、しかし上のシャツはひっかけただけでボタンを留めず、厚い胸板を剥き出しにしたままだ。
「おはよう、エド」年上の男は目を擦りながら、彫りの深い顔立ちをぼんやりさせている。
「きみは早起きだな。きのう死んだように眠ってたから? ほとんど失神だったが……」
ウィルクスは思わず反射的に結婚相手を睨んだ。ハイドはまったく動じず、しかし相手が電話中とわかって声をひそめた。
「すまない、仕事の電話?」
「いえ。……ユベールさんと、ちょっと」
「イヴと?」ぼんやりした薄青い瞳が急にしっかりした輝きを帯びる。「なんの話だ?」
「相談です。聞いてほしいことがあって」
「そうか。じゃあ、向こうに行ってるよ。いや、気にしないで。シャワーをして髭を剃ってくる」
ハイドが部屋から出ていくと、ユベールは息を吹き返したかのように大きく息をついた。
「シドかい? あいつ、嫉妬するんじゃないかな」
「しませんよ」
ウィルクスはあっさり言って、扉が閉まっていることを確認したあと、ソファから身を乗りだすようにしてスマートフォンに言った。
「じゃあ、ユベールさん……その、おれが……そ、その」
潔癖で羞恥心が強いウィルクスはしばらくもごもご言っていたが、急に引き締まった声で尋ねた。
「おれがそれを好きでも、異常ではないんですね?」
「『それ』って?」
「……ハイドさんがサドっぽくなることです」
やっと本題かと思い、ユベールはニヤニヤしながら象牙風の灰皿に煙草の灰を落とすと、努めてまじめな口調でささやいた。
「きみがサディスティックに責められることが好きでも、大丈夫、それは単なる好みの問題で異常ではないよ」
そのとき、スマートフォンの向こうでウィルクスは怒った顔になっていた。動悸が激しく、口の中が渇いて目がうるんでくる。それでも焦げ茶色の目は鋭かった。彼はおそるおそるというふうに言った。
「ほんとですか? 変態性欲に入りませんか?」
「精神医学的にはなんて言われてるのかはともかくだね、人間はみんな多少は変態だから大丈夫だよ。それに、おれはまだ信じられないな。ウィルクスさんみたいなまじめで潔癖で初々しい人が変態なんて。きっと実際は悩むほどじゃないと思うよ」
あなたは知らないんですよユベールさん、とウィルクスは心の中で思った。しかし、少し安心もする。もしかしたら、そんなにたいしたことじゃないのかな……。
ウィルクスはほっとした顔で尋ねた。
「あの、それからもう一つ」
「なんだい?」
「シドがおれを調教したいらしいんですけど、どうすればいいでしょうか?」
「……ハードに?」
「いや、あの。ソフトにです。……フェラと騎乗位を徹底的に仕込みたいらしいんですが」
「嫌じゃなかったら、つきあってやったら?」
「じゃあ、そうします」
ウィルクスはあっさり言った。それから赤くなり、逃げるようにスマートフォンにささやいた。
「ユベールさん、話、聞いてくださってありがとうございました」
「いやいや、どうしたしまして。よいセックス・ライフを!」
どこか爽やかに言ったユベールの声にウィルクスは赤くなり、ぶっきらぼうにうなずいたあと通話を切った。
部屋がしんとする。ウィルクスはスマートフォンを自分の隣に置き、ぼんやりさきほどの会話の中身を反芻していた。
扉が開いて、ハイドが顔を覗かせる。シャワーをして髭も剃ってきたが、相変わらずだらしない格好のままだった。ボタンはなんとか胸元まで留まっている。
「もう電話は終わったのか?」
ハイドの質問にウィルクスはこくっとうなずいた。ハイドはジューサーで作った謎の液体の入ったグラスをパートナーに差しだしながら、尋ねた。
「なんの話? あ、言いたくないなら言わなくていいからね」
「あ……、あの、ちょっと……」
ウィルクスはもごもご言ったが、ハイドはずばりと言った。
「性生活に関する話?」
「……なんでそう思ったんですか?」
「ユベールは性愛の生き字引みたいな男だからね。彼の仕事に関する質問……作家業についてとか、本についての相談ならきみは隠したりしない」
「それはまあ、論理的な推理です。でもおれがないしょで警官から作家に転身したいから相談した、っていうこともありうるじゃないですか」
「確かにそうだ。でも、それならぼくはきみの夢を応援するよ。刑事のきみはかっこいいけど、ぼくが惚れたのはあくまでエドワード・ウィルクス君そのひとなんだから」
優しい心遣いに、ウィルクスは思わず胸に熱いものがこみあげるのを感じた。ハイドはグラスの中身を飲み干すと手で口元をぬぐい、「で?」と屈託なく首を傾げた。
「セックスに関係ある相談?」
「……そうです」
ウィルクスは白状したが、相談の中身までは教えなかった。彼もグラスの中身を飲み、得体の知れない液体なのに毎回なんておいしいんだろうと思う。飲み干すとグラスをハイドに手渡した。
彼は急に真剣な表情になった。
「ぼくとのセックスに悩んでるのか?」
「え? いえ、そんなことありませんよ!」
ウィルクスがオーバーに否定してもハイドは難しい顔をしている。彼は年下のパートナーのほうに歩み寄りながら、少し悲しそうな顔をした。
「ほんとか? もしもの足りなかったり、不満だったら言ってくれ。気をつけるようにするからね。巧くなれっていうのは、少し時間がかかるかもしれないが……」
「あなたは、い、いつもおれのしてほしいことをしてくれますよ」
「してほしいことって?」
「それは……」ウィルクスは目を逸らした。
「おれの、す、好きな体位でしてくれるし」
「バックが好きなんだよね」
「……はい」
それからウィルクスはちらっとハイドの目を見た。
「でも……あなたの好きな体位でもできるようになりたい。き、騎乗位、頑張りますから」
そう言ったあと、ウィルクスはすぐに眉を吊り上げた。
「なに、やにさがってるんですか」
ハイドは満面の笑みでニヤニヤしていた。
「いやあ、ぼくの奥さんは可愛いなあと思って。幸せを噛みしめていた」
「……よかったですね」
「うん。愉しみだなあ。どうやって調教しようかな」
ウィルクスは椅子に腰を下ろした。膝の上にスマートフォンを置き、目を伏せる。
「おれなんか調教しても、別に愉しくないと思いますよ」
「気づいてないんだな、エド」ハイドはにこやかに言った。
「きみと出会って、寝るようになって、ぼくはそのたび毎回きみを調教してきたんだってことを」
「え?」
「きみはとっくの昔に、俗に言う『ぼくの色に染まって』るんだよ」
ハイドは椅子に座るウィルクスの前にしゃがみこみ、彼が自分の膝に乗せた手をとって瞳の中を覗きこんだ。
「きみはもうぼくのものなんだ。自分のものには名前を書いておかないとね」
ウィルクスはぷるっと震えた。目を伏せ、長身の背中を丸めて黙っていたが、結局目を伏せたまま言った。
「シド、今、ちょっと変」
「え?」ハイドは笑った。「そうかな?」
「……ユベールさんに相談したんです。あなたが最近、激しいというか……サドっぽいって。ユベールさんは別に、異常なことじゃないって言った。その、パートナーの合意があるならそれは二人の好みの問題だからって」
「いいこと言うじゃないか、イヴ」
ウィルクスはハイドに手を握られたままじっとしていた。年上の男の、厚みがある大きな手は熱かった。じわじわとウィルクスの耳には血がのぼりはじめていた。
手をとらえられて、彼は手のひらが汗で濡れるのを感じた。ハイドは怖い顔で赤くなっている男の顔をじっと見つめた。 ウィルクスは突然言った。
「あなたがサディストでも、おれ、嫌いになりませんから」
ハイドは優しく微笑んだ。ウィルクスの手の甲を撫でながらささやく。
「ちょっと、思うんだ。きみをぼくの性奴隷にしたい。もちろん、ベッドの中でだけだよ。監禁なんかしないし、仕事にだって行っていい。好きなときに出掛けていいし、誰といっしょにいてもいい。でもベッドの中ではぼくの奴隷だ。きみを手錠でつないで、いじめて、狂いそうになるほど精液を注ぎこんで、きみの肩にぼくのイニシャルのタトゥーを入れる」
「……本気じゃないんでしょう? おれをからかってるだけなんでしょう?」
「どうかな」ハイドは笑った。
「きみはぼくの奴隷になって、ぼくを満足させる。それが仕事だ。そしてきみのモチベーションを上げ、最善を尽くせるように、ぼくはきみをどろどろに可愛がる。……っていうのは?」
「ロマンチストですよ、あなたは」
「美しく表現してくれるんだな。言ってて自分でも気持ち悪いけど、気持ち悪くない本心なんて本心じゃないよ」
そう言ってハイドは腰を上げた。ウィルクスの手を一度ぎゅっと握り、離した。
その青い瞳の穏やかさに、ウィルクスはハイドの心の中が読めなかった。年上の男はどこか別の場所で生きているかのように、このときも優しかった。
「いじめていいですよ」ウィルクスは口走った。
「サディスティックで、エゴイストな暗い心でいじめてもいい」
「エド」
「おれの前では隠さないで」
ハイドの顔から一瞬、表情が消えた。青い瞳は狼のように据わり、彼は年下の男をまじまじと見下ろした。そしてささやいた。
「きみはだめな男を増長させるよ、刑事くん。でも、ありがとう」
ハイドは手を伸ばしてウィルクスの頭を撫でた。短い前髪を指で梳き、丁寧に髪に触れた。
「きみは今日、仕事か?」
「はい、昼から。そろそろ用意しなくちゃ」
「わかった。気をつけて。帰ってくるまでにおいしい夕食を作っておくよ。食べたら、すぐにシャワーを浴びておいで」
ウィルクスは一瞬目を伏せ、それからハイドを見つめた。年上の男は微笑んで彼の頬骨を撫でた。そのとき、ウィルクスはハイドを近くに感じた。刑事はかすかに微笑んだ。
ハイドは優しく言った。
「声、ゆうべのせいでちょっとかすれたね」
「煙草の吸いすぎでごまかしますよ」
うん、とハイドは微笑んだ。
ウィルクスは自分の喉仏に触れて思う。これもあの人が刻んだ「自分の名前」なんだな。
確かに気持ち悪い。それでもウィルクスは自分が心の中でどれだけ悦んでいるか知っていた。欲望を焼き印のように体に押しつけられながら、ハイドの心のままに調教されたかった。
ウィルクスは夜を待った。
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