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探偵と刑事とかげの声△

「寂しいです。早く帰ってきてくださいね」  エドワード・ウィルクスが居間のソファからスマートフォンでメッセージを送ると、彼のすぐそばにある、結婚相手の仕事机の上で別のスマートフォンが振動した。スマートフォンはウィルクスのパートナーである、十三歳上の男、シドニー・C・ハイドのものだ。  ウィルクスはハイドのスマートフォンをちらりと見て、肩を落とした。  二週間くらい、仕事でヨーロッパに行ってくる。そう言って一週間前に出かけて行った私立探偵のハイドは、スマートフォンを忘れていった。気がついたウィルクスが連絡をとろうとしても、ハイドの滞在先がわからない。  きっと不便だろうから、どこかでスマートフォンなり携帯電話なりを調達しているはず、とは思うが、ハイドからはまったくなんの連絡もこなかった。携帯電話がなくとも、滞在先からなんらかの連絡をしてきてもいいはず、と思う。しかし電話は掛からないし、メールもこない。  ウィルクスは仕事用のメールアドレスにもメールを送ってみたが、返事はなかった。ノートパソコンを置いていったからだろうか?(これは忘れ物ではない)  スマートフォンを忘れていったことに気がついていないのか(まさか、そんなことはないだろう)、連絡しなくてもいいかなと思っているのか、あるいはなんらかの事件に巻きこまれているのか。  いちばん最後の理由だったら嫌だな、とウィルクスは思う。それならのんきな不精者のほうがいい。  ウィルクスは自分のスマートフォンの、チャット形式になったメッセージ・アプリの画面をじっと見つめた。今までならいつも必ず返ってきていた返事が返ってこない。それが寂しかった。もう二度と、ハイドから返事が返ってこない気がした。  パートナーのスマートフォンから目を逸らし、ウィルクスは暗い部屋の中に座って、あーあと思う。  ハイドと離れたうえ連絡が来なくなったことで、情緒面だけでなく、肉体的にも狂いが生じだした。  深刻なおかず不足。下世話な言い方だが、ウィルクスはひしひしとそのことを痛感している。  彼は自他共に認める淫乱だ(「他」というのはハイドだけだが)。性欲が強いうえ、パートナーに開発されて我慢が苦手になりつつある。  ついムラムラして、しかし、したくなってもハイドはいない。欲情を持て余してウィルクスは苦労していた。こんなときのために、ハイドは「電話するからね」と言い残して出かけていったのだが。  ハイドの匂いが好きなウィルクスは、パートナーが出発前日に着ていたシャツを嗅ぎながら最初の一夜を過ごした。しかし、洗濯してしまえば匂いは洗剤のそれになる。  どうしようもなくて、次は思わずポルノに走った。ネットでゲイ・ポルノを鑑賞し、体格のいい年上の男に抱かれる青年に自分を重ね合わせる。  ビデオを観ながら後ろを責め、最後に男として達した。その後、急速に我にかえり、なんでこんなことをしてしまったのかと落ち込んだ。  それがついおとといのことだ。ウィルクスは思い出して頭を抱えたくなる。しかし、今夜の彼はブレーキを振り切った。欲情した勢いで、ハイドのスマートフォンにふたたびメッセージを送る。 「あなたの魂はそっちに置いてていいから、体だけ帰ってきてください」  机の上のスマートフォンが振動した。  ……ひどいメッセージだ。ウィルクスはそう思った。ため息をつき、それから改めて手の中のスマートフォンを見る。黒い画面のそれが熱く脈動したように、ウィルクスには思えた。  今夜はこれがある。  刑事として勤める仕事から帰って、白いTシャツと黒っぽいスキニーパンツに履きかえたウィルクスは、缶詰のパスタと林檎で夕飯を終えたところだった。  帰宅の道すがら、そして食事中に何度も考え思い悩んだことを、考えた末実行することにした。ソファの中でぎこちなく身じろぎしたあと、自分のスマートフォンを操作して写真フォルダからビデオを選択する。  ビデオのフォルダには映像が一件しかない。プレビュー画面ですら、見てしまうと胸が苦しくなり動悸が高まる。興奮で気分が悪くなりそうだ。ウィルクスはスマートフォンを握ってしばらく固まっていた。  八分ほどの短いビデオだが、「中身は充実」とハイドが飄々と言っていた。  ハイドとウィルクスが八月にひらいた結婚パーティーの夜、酔った二人のベッドでの営みを映したビデオだ。撮影したのはハイドで、カメラはウィルクスに向けられている。  ハイドが以前、メッセージに添付して送ってくれたそのビデオをウィルクスが見るのは、これが初めてだった。  どきどきしながら震える手でプレビューを押すと、ビデオが再生される。しかし、いきなり自分の喘ぎ声が聞こえてウィルクスはすぐさまビデオを停止させた。  心臓がどくどく鳴って、耳まで赤くなる。スマートフォンを持つ手が震える。ウィルクスは涙ぐむほどじっと画面を凝視した。しかし震える指でふたたび再生マークをタップした。  スマートフォンを膝に乗せ、スキニーパンツの比翼のジッパーを下ろしながら、画面に見入る。  ベッドの中で真っ赤になり、歪んだ顔を両手で隠したウィルクスが映しだされた。彼が必死で顔を隠している手を、ハイドの大きな手が握りしめる。 『エド』 『ん、んっ』 『こっち見て』 『んっ』 『エド、っ』  ハイドの手がウィルクスの耳に触れ、淫らな手つきで皮膚の薄い縁の部分を擦ると、ウィルクスはぴくぴく跳ねて顔を覆う手をわずかに上に上げる。  喉がのけぞり、喉仏が淡い光の中、白く光って見えた。カメラはウィルクスの口元を撮っている。舌が犬のように垂れ、口の端から唾液が細い糸を引いている。  彼は喉を鳴らし、口をぎゅっと閉じた。しかし―― 『んんっ、ん、ん、あっ』  ウィルクスは口を閉じて喘ぎをこらえていたが、ハイドに奥まで突き刺された衝撃で口が開いた。喘ぎが垂れ流され、体が跳ねる。ベッドが軋んだ。 『エド、……エド、っ』 『っあ、あっ』  カメラは下にすべって、二人のあいだで揺れるウィルクスの性器を映す。彼のそれは半ば持ち上がり、半ば萎え、愛液をとろとろ垂らしていた。  ぴくぴく跳ねるそれを映したあと、カメラはさらに下りて、二人の結合部を映しだした。逞しく屹立したハイドの牡がウィルクスの中に飲みこまれている。皺がなくなるほど拡がったその場所は、ローションでぬらぬらと卑猥に鈍く光っている――。  ビデオを見つめるウィルクスの体に力が入り、彼は脚の間で手を上下させた。映像にも興奮するが、なにより興奮したのはハイドの声だった。  低く上擦った声がウィルクスの名前を呼び、荒い息遣いを漏らしている。まるでいまハイドが目の前にいて、責めているかのように。  映像にハイドの顔が映らないぶん、ウィルクスは興奮した。記憶にあるパートナーの表情を思いだす。  輝く据わった目、狼みたいに険しい表情。はっはっと息を吐き、汗ばんで、肌はかすかに上気している。  交わっているときのハイドの顔をウィルクスは愛していた。ふだんは穏やかで優しい顔が一変し、成熟した牡の色香を放つ。夫の肌の匂い、それに香水と汗がまじった発情の匂いと共に。  思いだして、ウィルクスの目は朦朧としはじめた。脚のあいだに押しこんだ手を上下させる。  さっきはじめたばかりなのに、もう出そう。早すぎるだろ……と思いながら、ウィルクスは自分の堪え性のなさを知っていた。パートナーと交わる映像を狂ったように見つめ、濡れた手を激しく上下させた。ぷるぷる震えながら膝を立て、長身の背中を丸めてもう我慢ができなくなる。  そのとき、居間の扉が勢いよく開く音がした。 「ただいまエド! 帰ったよ!」  ウィルクスの体がびくっと跳ねた。  軽装の荷物を手に、笑顔で部屋に入ってきたハイドの顔が一瞬固まった。つぎの瞬間、彼は扉を閉めて踊り場に戻っていた。そこからはっきりした声で言う。 「ごめん、エド。ぼくに気にせずゆっくりしててくれ」  ウィルクスの顔が首筋まで赤くなる。喉から「うううっ」という声が漏れ、彼はソファの中にくずおれた。 「ノックをするべきだった」扉の向こうからハイドが穏やかに言う。「すまなかったね。ぼくのことは気にしないで。自分の部屋に荷物を置いてくるからね」  そう言って、床に置いたスーツケースを持ち上げたハイドの耳に、部屋の中からぶつぶつつぶやくような低い声が聞こえてきた。ハイドは扉にぴたっと顔をくっつける。 「エド? どうしたんだ?」  またぶつぶつ言う声が聞こえた。 「どうした?」 「……な、中、入ってください」 「でも、きみはその……えーと、プライベートな時間を過ごしているみたいだから。ぼくに遠慮しないで」 「い、いいんです」 「だが……」 「さっき驚いたので、で、出ちゃったんです。だからもういいんです!」  ハイドが荷物を手にゆっくり扉を開けると、窓際のソファで撃沈しているウィルクスと目があった。凛々しく整った顔は歪み、真っ赤で、頬に涙の跡がついていた。顔はぐしゃぐしゃだが、とろっとした目は細められている。その顔を見たとたん、ハイドの鼓動が高鳴った。 「ドライでイっちゃったのか?」  目をきらきらさせ、ハイドはそっと歩み寄りながら尋ねた。ウィルクスはぷるっと震え、立てた膝に顔を埋める。 「……フツーに射精しましたよ……。おれ、最低だ……。一週間も我慢できなかった」 「そ、そんなことないよ!若い男の子なんだし一人でして当然だ。だって……」  ハイドはうつむくウィルクスの頭をそっと撫でた。 「ぼくがいなくて寂しかったんだろ?」  顔を上げたウィルクスを見つめ、ハイドは年下の青年の耳に触れた。ビデオの中のように淫らに触って、にっこり微笑んだ。  ウィルクスはハイドの笑顔をじっと見つめ、涙がたまった目元を歪めてぷるっと震える。恨みがましくつぶやいた。 「……シドのばか。スマホ忘れていったし連絡はないし、もう帰ってこないのかと思いましたよ」 「ははは、ごめん」 「笑いごとじゃないですよ。女と駆け落ちしたのかと思いました」  本気では思っていないことを言うと、ハイドは謎めく笑みを浮かべた。ウィルクスは目を伏せる。「可愛い子だな」と思われている。それがはっきりわかった。  大きな手で頭を撫でられてもウィルクスはぶすっとした顔で目を伏せていた。 「なあ、エド」ハイドが低く落ち着いた声でささやく。「きみが寂しかったってことは、ぼくも寂しかったんだよ」  ウィルクスは優しい微笑みを睨んだ。 「……タラシなんですから」 「心の内を素直に打ち明けただけだよ」 「真面目な顔してるけど、どうなんですかね」 「証明しようか?」  狼の顔で微笑むハイドにウィルクスの体が震える。彼は黙ってうなずいた。 ◯    その夜、ウィルクスが眠っているあいだにハイドはスマートフォンに届いていたメールや、留守電をチェックした。それからアプリを開いて、パートナーからのメッセージを読んだ。ハイドはくすっと笑って、返事を打った。 「魂も肉体もそばにいるよ」 「待っててくれて、ありがとう」  もし死んだとしても、肉体が滅びても、戻ってくるよとハイドは思う。  そうなってもパートナーを慰められるように、声だけは持っていたい。  眠るウィルクスの裸の後ろ姿を見て、ハイドは思った。

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