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探偵と刑事と娘・二

 そうやって、何日かが過ぎた。アメリアは次第に家になじみ、ウィルクスとさらに仲良くなり、学校から帰ってくると本棚の本を読みまくった。友達が訪ねてくることはなかった。  依然として、アメリアとハイドとの距離は変わらないままだった。彼女はとても礼儀正しく、落ち着いた物腰は変わらずに、「ハイドさん、お茶はいかがですか」と彼に尋ねる。ハイドが「お願いするよ」と答えると、アメリアは優美な動作で熱いお茶をカップに注いだ。二人で会話をするときは、お互いにかなり遠慮していた。井戸がどのくらい深いか石を落としてみよう、というように、会話をぽつぽつ落とした。 「意外ですね」とウィルクスは二人っきりのとき、ハイドに言った。 「あなたは気さくで、愛想のいい人だ。あらゆる面で、すごく器用でもある。それなのに、アメリアに接するときはおっかなびっくりで、いつもどことなく緊張している」 「愛想は悪くないつもりなんだよ」  ハイドが書きかけの書類を机の端に置いて言うと、ウィルクスはうなずいた。 「愛想はいいですよ。いつもどおり、すごく優しくて、穏やかだし。だからわかるんです」彼は両手に包んだカップの中身をくるくる回しながら微笑んだ。「アメリアがあなたを怖がっていないことが」  それならいいんだけど、とハイドは言った。怖いと思われることは本意ではない。それでも、少しはそう思ってほしい、とも思う。怖がられてはいないけれど、まだ警戒はされている。それはそうだ。彼女から見たら、ぼくは「いっしょの家にいる、よそのおじさん」なんだろうな。そう思った。どうせなら一生そう思っていてほしい、と思う。  距離を縮めることが怖いのはハイドのほうだった。  そんな話をした次の日、彼にアメリアと二人っきりになる時間が訪れた。 ○  午後四時から休みをとっているウィルクスを職場まで迎えに行くために、ハイドとアメリアはハイドが運転する車に乗っていた。ショッピング・モールの映画館で上映されている映画を三人で観よう、という話になっていた。アメリアはその日、翌日が文化祭のために早めに学校から帰ってきていた。 「他のクラスは準備してるけど、うちのクラスはもう終わっちゃったんです」  助手席にアメリアを乗せ、運転用の眼鏡をかけて混雑した道路を注意深く走りながら、ハイドは前を向いたままうなずいた。彼はふと、アメリアから学校の話を聞くのは初めてだなと思った。ウィルクスはときどきそんな話を聞いていたが、彼はハイドに話していなかった。 「学校は、愉しい?」  ハンドルをきり、ギアを操作しながらハイドが尋ねた。アメリアは茶色いスカートの膝に乗せた、『Xの悲劇』という推理小説の本を手で撫でていた。 「愉しいです」 「そう、よかった」  そう言って、ハイドは自分の言葉が冷たく聞こえなかったか心配した。アメリアは黙っている。うつむいて本の表紙を撫で、黒猫の絵が描かれた栞を触る。今にもページをめくって読もうとしているようだった。ハイドは信号待ちになったのでハンドルを握る手を緩め、ギアを操作し、日差しにまばたきしながらまた尋ねた。 「ウィルクス君とは、仲良くできてる?」 「はい」アメリアはつぶやいた。「ウィルクスさんとお話ができて、とっても愉しいです」 「よかった。彼は、本が好きだから」長い信号だなと思いながら、ハイドはハンドルを両手で握る。「きっときみと気が合うんだね」 「ハイドさんは、どんな本が好きなんですか?」  ハイドはちらっと隣を向いた。アメリアはじっと彼のほうを見ていた。 「どんな本も好きだよ」とハイドは笑った。「でもたしかに、推理小説は好きだな。よく読むよ。怪奇小説も好きだし。ファンタジーはあまり読まないかな。でも、嫌いじゃない。あとは仕事の本とか、ピアノの楽譜とか」 「ピアノ、弾くんですか?」 「ああ、趣味でね。アップライトピアノを置いた防音室が家にあるんだよ。……言ってなかったな。きみもピアノを弾きたいなら、そこを使ったらいい」 「わたし、あんまり演奏が上手じゃなくて」  信号が変わったので、ハイドは車を発進させた。空調がやや冷たすぎる風を吐きだして、アメリアは片手で長袖のブラウスの上から腕をさすった。 「寒い?」  ハイドが温度をあげようと手を伸ばす。ありがとう、とアメリアは言った。 「わたし、うれしかったんです」突然彼女は言った。「ウィルクスさんと知り合えて。だって、本物の刑事さんだもの。子どものころから推理小説をずっと読んでたから、憧れだったの」  ハイドはかすかに微笑んだ。アメリアは本の表紙に両手を置き、ハイドのほうを向いてしゃべった。 「本によっては、悪徳警官が出てくることもある。でも、ウィルクスさんは魂が本物の刑事だわ」 「彼はそうだね」 「それから、ハイドさんと知り合えたのも」アメリアはまた突然言った。「だって本物の私立探偵だもの。ほんとに、マスクをつけた王様が訪ねてきたりするんですか? シャーロック・ホームズの『ボヘミアの醜聞』みたいに」  ハイドは思わず笑った。アメリアはかすかに赤くなり、眉をちょっと吊り上げる。 「いえ、今はメールがあるもの。そんなことないんだわ」 「ぼくも、思うんだ。仰々しい手紙が封書で送られてくる。仮面を身につけた謎の男が登場。身分は明かさないけれど、否応なく滲みでる高貴さ。そして厳かな声でこう言う。わたしのために働いてくれないか、と」  声を潜めて言ったハイドにアメリアは笑った。 「ハイドさんもシャーロック・ホームズが好きですか? それとも、あんな探偵なんか、って思う?」 「ホームズはぼくのアイドルだよ。遠くから崇拝していたいタイプの。彼は頭脳明晰で、クールで、青ざめた皮膚の下に熱い血を持つ。孤独で問題を抱えてるけど、エレガントに生きてる」 「わたしはそんなふうには生きられない」 「ぼくもだ。だから憧れる」  アメリアはしばらく黙っていた。膝に置いた本を撫でている。ハイドはハイドは正面を見て、後ろの車が追い越してくるのをミラー越しに確認した。  突然アメリアが言った。 「ちょっと怖い人だと思ってました」 「ホームズが?」 「いいえ。ハイドさん、あなたが」  ハイドはギアを切り替えた。アメリアがつぶやいた。 「あなたはなんというか、全然ものに動じないから。だから完璧な人で、怖いものなんかなにもないんだと思ってた」 「そんなことはないよ」  たくさんあるよ、とハイドはつぶやいた。アメリアは前を見ている。そのまま言った。 「あなたがウィルクスさんのこと、とても好きだってわかってすごくうれしいです。だからウィルクスさんは、きっと大丈夫ね」  どうかな、とハイドは思った。しかし、唇には微笑が浮かんだ。  エドのこと、気にしてくれてありがとう。ハイドがそう言うと、アメリアは背筋を伸ばしてまじめな顔をした。彼女はハイドの目に一人の淑女として映った。白い肌の内側から照らし出される血の色は、彼女の頬をばら色に染めた。胸に垂れた金色の髪が日差しに透きとおっていた。彼女は突然ハイドのほうを向いた。 「居間の本は、読んでもいいんですか?」  アメリアの質問に、ハイドはギアを切り替えながらうなずく。 「怖い本や、気持ち悪い本もあるから気をつけて。死体の写真とか、臓器の写真とか、いろいろ残酷なものが載っている本もあるからね」 「わたしは平気です」 「でも、ウィルクス君は読ませたくないかもしれないな」  アメリアはちょっとしゅんとしたようだった。ハイドは穏やかに言った。 「それは本当に恐ろしくて、残酷なんだ。あまり勧めたくはないけれど、好奇心も大事だね。いっしょに考えてみよう。それから、その……うら若い乙女が読むには、いかがわしい本もある」 「いかがわしい本?」 「ぼくの大学時代の先輩で、作家になった男がいてね。彼はポルノ小説と見分けのつかない純文学やミステリーを書いている。それはきみがもうちょっと大人のお嬢さんになってから読むのを勧めたい、と思う」  ハイドを見つめる少女の目は愉しげだった。自分の強さを隠しているアルテミスのようだった。彼の言葉にうなずき、それでも目を輝かせて、「表紙だけは見せてください」と言った。 「いいよ。表紙はね、すごく洗練されていて美しい。彼は、センスはあるんだ」  そう言ったあと、ハイドはふいに少しトーンの違う声で、前を向いたまま切りだした。 「きみは女の子で、ぼくとエドは男だ。だから、ぼくらに言えないこともあると思う。二人の女の人を紹介するから、ぼくらには言いたくなくてなにか聞いてもらいたいことがあれば、彼女たちに相談するといい」 「それは?」 「一人はルイーズ・ノートン夫人。魔女とあだ名されるミステリアスな人。ぼくは彼女を魔女だと信じている。面倒見がよくてね、開けっぴろげでおせっかいで、エドがぼくに片思いだったころ、彼の味方をしていた唯一の人だ。もう一人は、シンシア・ミドルトンさん。おとなしくて控えめな人で、占いが大好きなんだ。だから、運命と対峙する芯の強さがある。ぼくらの友達だよ。今、お腹に赤ちゃんがいる。なにかあったら、この二人に相談してみて。きみのことを知ろうとしてくれるだろうから」  本の端を手で撫でて、アメリアはうなずいた。車はもう警視庁を臨む通りを走っていた。 「男所帯に来て、慣れないことも多いと思う」  そう口にしながら、ハイドは自分が何者になったのかわからなかった。兄でも父親でもなく、まるで孤児院を営む孤独な男になった気がした。 「言えることや、言いたいことは、いつでも遠慮なく言ってくれ。ぼくもエドも気をつける。出ていきたくなったら、いつでも出ていってかまわない。ぼくたちもきみの帰る場所を探す。なにも約束はできないけど、でも、できるだけ……」  幸せになってほしいから、という言葉を言おうとして、ハイドは言えなかった。自分でもとても芝居がかって、嘘のように聞こえる気がしたからだ。  彼は思いだした。女遊びが好きな、愛想がよく酷薄な父親と、彼女を盲目的に愛する母親。両親も、異母兄たちも、シドニーに注意を払わなかった。いつも「そこにいたの?」という目で見られた。そんなときはよく乳母を探しに行った。彼女はいつも両手を広げて微笑んで、両親とも兄弟とも違う意味で、「そこにいたの?」と言った。  それでもやっぱり、父親になるのは怖いんだ。ハイドは思った。 「ハイドさん」前を向いたままアメリアが言った。「ありがとう。気にかけてくれて。あんなことになって、父も母も間違っていたと思う。でも、わたしは二人のことが好きです。それを許してくれてありがとう」  その言葉を聞いて、ハイドは振り返った。自分は優しい言葉を考えるばかりで、ほんとうには彼女のことを気にかけていなかった。父親のようにならねばと思うことに必死で、彼女の心に棲む父や母のことを忘れていた。  それからハイドは突然に、乳母のことを思いだす。彼女はごくたまに、ハイドの夢に現れる。目覚めているときは彼女のことを忘れていて、今はその場所にウィルクスが座っている。彼は凛々しい目でハイドを見て、「そこにいたんですか?」と言って、微笑んでいる。  もうあまり嫉妬しなくてすみそうだ、とハイドは思った。彼の目に、ウィルクスとアメリアはよく似て見えた。どちらも素直で、内向的だ。しかし凛としている。自分の生きる道を探している。彼らは傷つきながら伸びる芽のように若々しかった。  もしまた隣の席の彼女が話してくれるなら、その話を聞きたいとハイドは思った。  <ニュー・スコットランド・ヤード>という黒い看板が見えてくると、ハイドはブレーキを踏んで門の前にゆっくり車を止めた。邪魔にならない片隅でペーパーバックの本を読んでいたウィルクスは顔を上げ、手を振った。  本を胸に抱えてアメリアが手を振り返していた。 ○ 「今夜は二人きりだな」  それから六日後の夜、ハイドは快活な笑顔でそう言った。満面の笑みは彼がいかに嬉しいのか、ウィルクスに伝えていた。 「この日を待っていた」と堂々と言ったハイドは茶色のパジャマのパンツを履いて、しかし風呂上がりの逞しい上半身は裸のままだった。  ウィルクスはまだ熱を帯びている彼の肌に触れ、鍛えられた腹の筋肉を指先でなぞり、縦に長い臍を撫でた。焦げ茶色の瞳はまっすぐ年上の男の目に注がれ、鋭いその目は揺らぐ炎のように輝いていた。ウィルクスも上半身は裸で、スウェットパンツの腰の紐はゆるく結ばれていた。  アメリアが昼からルイーズ・ノートンの家に泊まりに行った日曜日、夜は密度が濃く、少しずつ冷え込んで、とても静かだった。二人はぴったりより添って、お互いの剥き出しの首筋にキスをした。それから唇に触れ、啄むようにキスをする。ハイドは恋人に覆いかぶさって、茶色の短髪を撫でながらささやいた。 「今夜はずっといっしょだ」 「わかってます」 「二人目、つくろうか」  意外な冗談を言ったものだとウィルクスは目を丸くする。ハイドも自分で口にしたあと、ぽかんとしていた。それから笑った。ウィルクスはじっとハイドを見つめ、彼の頭を抱き寄せた。  欲情に突きあげられるままにキスを繰り返しながら、ハイドは思った。  今のこの瞬間、少しも怖くないと。  一週間後、アメリアはドイツにいる叔母の元へ旅立った。そして一年に一度、二人のところに帰ってくる。

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