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探偵と刑事とホット・チョコレート

「おれ……」  その声に、シドニー・C・ハイドは目を開けた。ベッドの中でうとうとしてはいたが、眠気は浅い。寝返りをうってパートナーのほうを向く。  同性で、十三歳下の結婚相手、エドワード・ウィルクス。彼は背中を向けて眠っている。ベッドサイドのランプで直線的な肩が柔らかなオレンジ色に光っていた。ハイドが見ていると、また声がした。 「おれは、淫乱なんかじゃない」  ハイドはパートナーのほうを覗きこむ。ウィルクスは眉間に皺を寄せて、閉じた目から涙がぽろっと落ちた。  裸のまま正座して、ハイドは眠るパートナーの隣でそわそわした。今夜も、淫乱だねと言っていじめてしまった。そのときのことを思い返す。でも、エドは「はい」って何度も言って、とても気持ちよさそうだったのに……。  じつは深く気にしているんだろうか。たしかにエドは自分の好色さを気にしていて、ふだんは強く自責している。恥ずかしくて、そんな自分が汚らわしいと思っている。ハイドは後ろから覗きこんで、涙が垂れた頬を固くなった顔で見守った。  行為の最中は興奮して、淫乱だと言われても受け入れていたけれど、我に返ったら(というか無防備な眠りの中で)苦しみが押し寄せてきたのかもしれない。だったら、気の毒だ。  ハイドは大きな手でウィルクスの茶色い短髪を撫でた。「ん……」とかすかにうめいて、彼は体を丸める。抱きしめたい気持ちに圧倒されて、ハイドはパートナーの頭を黙って撫でた。  そのとき、枕元に置いたスマートフォンが振動した。  ハイドは急いで電話にでて、声を潜める。 「はい、シドニー・ハイドです。……はい。え? 今からですか?」  振り返って時計を見ると、深夜零時十五分過ぎ。しかし、探偵はうなずいた。 「わかりました。向かいます。……気にしないでください。最後まで相談に乗るとお伝えしていますから。ええ、ではまた」  通話を切るとベッドから降り、床に落ちた下着を拾う。振り返って、パートナーの背中を見た。痩せた体に浮きあがった肩甲骨。そのあたりにハイドがつけた噛み痕がある。ウィルクスがいるほうに回って、落ち着いた寝顔を確かめたあと、彼の側にあるナイトテーブルの引出しを開けて取りだしたメモ用紙に書く。 「仕事で出掛けるよ」  時間を書いて、もう一度ウィルクスの頭を撫でたあと、ハイドは部屋の隅のクローゼットを開けて、服を急いで選びはじめた。  それから二人は三日、顔を合わせなかった。 ○ 「ストライカーさんじゃないですか」  スコットランド・ヤードの近くのコーヒーショップで、ハイドは刑事のストライカーに出会った。枯れ木のような刑事は振り向いて、片手を軽く挙げた。ハイドが目の前の椅子に座ると紫煙を吐く。ちらりと彼が持つトレイを見た。 「なんだ、それ」 「レモン&マンゴージュース、パッションフルーツのアイス乗せです」 「相変わらず冒険してるな」  刑事はぬるくなった、泥のように濃いコーヒーをすすった。ハイドは向かいの席でにこにこしていたが、ジュースを一口飲んだあと急に尋ねた。 「ウィルクス君は元気にしてますか?」 「ああ?」ストライカーはぎょろぎょろした目を向けて不審げな顔をする。 「なんでおれに訊くんだ? あんたは毎日会ってるだろう」 「仕事で外に出てて、この三日間顔を合わせてないんですよ。元気そうでしたか?」 「元気だとは思うがな。……ただ、ちょっとへこんでたぞ」  ハイドが首をかしげると、ストライカーは鼻を鳴らして煙草をもみ消した。 「ホームレスを袋叩きにしようとした若い男たちを止めたときに、『淫乱野郎』と罵られたんだとさ。頭に血がのぼったバカの、よくある罵声だ。別に気にすることじゃないのにな。でも、なんだか傷ついてたぞ」 「そうでしたか」  ストライカーはちらりと探偵の顔を見る。そして、他人のためにどうしてここまで悲しそうな顔ができるんだろうなと思う。もっとも、ハイドは眉間にかすかな皺を寄せているだけだ。刑事は新たな煙草に火をつけた。 「それから、ミスが増えた。ウィルクスのことだが。たいした失敗じゃないが、本人は落ち込んでる。疲れているのかもしれないな」  それで、ハイドにはわかった。「調子が悪いみたいですね」と言って、ジュースの上に乗ったアイスクリームをスプーンで沈める。ストライカーは腰を上げた。 「ヤードに戻る」 「それなら、ウィルクス君にむりしないように伝えてもらえますか? 今夜は会えそうだから、家で待ってるって」 「わかったよ」 「晩御飯はハンバーグだって、言っておいてくださいね」  うなずいて席を立つストライカーを見送り、ハイドはぼんやりした目でストローに口をつける。本当は、夕食はシチューの予定だったのだが、ウィルクスはハンバーグが好きだということを思いだしたのだ。帰りにスーパーマーケットで買い物をしようと思いながら、先日の寝言を反芻する。 「おれは、淫乱なんかじゃない」  そうつぶやいて、泣いていた顔を思いだした。 ○  ウィルクスは七時半すぎに帰ってきた。疲れた顔をしていたが、ハイドが出迎えると笑顔になる。 「ひさしぶりですね、シド」  そう言ってすり寄ってくるので、ハイドはパートナーの頭をよしよしと撫でた。ウィルクスは飼い主に甘える犬のようにうっとりして、尻尾をぱさぱさ振っている。それでも抱きつくことはしない。あくまで節度を保ち、自分に厳しい。  それでもぼくはきみのパートナーなんだから。もっと甘えていいんだよ、とハイドは言いかけたが、ウィルクスは体を離した。「着替えてきます」と言って、背中を向ける。そのとき、ハイドは彼の耳が真っ赤に染まっていることに気がついた。ウィルクスはすぐに居間から出て、自室に向かった。  十分後に降りてきたウィルクスは食堂の椅子に座り、所在なげにスマートフォンをいじっていた。さらに十分経ったころ、ハイドはハンバーグが山盛りに乗った皿をトレイに載せて顔を覗かせた。 「メニューはハンバーグとマッシュポテト、いんげんのソテーとポタージュだよ。デザートはブルーベリーのタルト」 「全部作ったんですか?」ウィルクスは目を輝かせた。「タルトも?」 「仕事から解放された勢いで作ってしまった。作るのは二回目だから、どうなってるかな」 「お疲れ様でした、シド」  ウィルクスの改まった口調にハイドは笑った。 「ありがとう」カトラリーを並べながら尋ねる。「きみはどう? 忙しいのか?」 「少し。……最近、失敗が多くて」  つぶやいたウィルクスの目が黒々としている。ハイドは話を聞きたいと思ったが、ウィルクスは話題を逸らした。 「おいしそうですね。冷めないうちに食べましょう」  二人は向いあって席につき、ディナーをはじめた。  おいしい、と言うウィルクスの目がきらきらしていること、笑顔が自然なこと、いっぱい食べてくれること、がハイドの心をあたためる。ウィルクスは食事中ほとんど無言で、最後のデザートとコーヒーまで残さず食べた。まるで別の欲望を、食欲として発散させてしまおうといわんばかりに。ハイドはそう思ったが、指摘しなかった。ただ、流れを見ながらウィルクスの言葉を待っている。人生において待つということが、ハイドには苦にならなかった。 「またあの病気が出ました」  ウィルクスはコーヒーカップをソーサに置いて、つぶやいた。ハイドはわかっていたが、言わなかった。ただ穏やかな目でウィルクスを見ている。彼はぷるっと震えて黙っていたが、やがてぽつぽつとつぶやいた。 「調子が悪くなってくると、おれは、セックスのことしか考えられなくなるんです。このところ、仕事でミスが増えた。あなたと会えなかった三日間は毎日自分でしてました。どうしてこんなことになるんだろうと思う。ちゃんとしていたいと思うのに、できないんです」 「きみは頑張ってるよ、エド」  ウィルクスは唇にかすかな笑みを浮かべて目を伏せていた。ハイドが椅子から立ち上がっても、彼は見なかった。  パートナーのそばに歩みよって、椅子に座っているウィルクスの頭を撫でる。 「でも、うまくいかないのは悲しいな」  はい、とウィルクスはつぶやいた。口の端が震え、声も震えている。 「うまくいかないきみでも、ぼくは好きだから」  はい、とウィルクスはまたつぶやいた。頑なに顔を上げない彼に、ハイドはその頭を抱えた。ウィルクスはもたれかかってくる。ハイドの胸と腹のあいだに頭を押しつけて、目を閉じていた。  いっしょに病院に行こうか、とハイドは言った。 「いい精神科のドクターを知ってるんだ。きみの依存は薬では治らないと言われているけど、相談することはできると思うから」 「おれ、だめですよね」  ハイドはパートナーの頭を抱いた。ウィルクスは胸に顔を押しつけていた。 「問題を抱えてるかと言われたら、そうだな。でも、ぼくも自殺未遂歴があるから」 「二人とも問題有りってことですね」 「生きていくのは苦しいことだな。誰にとっても」  そうですね、とウィルクスはつぶやいた。彼は顔を上げた。瞳が輝いている。涙のせいだろうか? こんなにも美しいのは。ハイドは目を細めた。 「あなたといると救われる」  ウィルクスの言葉に、反射的にハイドの胸に否定の言葉がよぎった。そんなこと、あるはずがないと思う。しかし、彼は言わなかった。ウィルクスの頭を撫で、ホット・チョコレートを飲まないかと言った。ウィルクスは笑って、「はい」と答えた。  二人でキッチンに立ち、ハイドがチョコレートを刻んで、ウィルクスが牛乳をあたためる。料理も理科の実験だと思ったら楽しいかもしれない、とウィルクスが言って、ハイドは笑う。鍋の中をかき混ぜるウィルクスを見て、寂しかったんだなとハイドは思った。  本当にはきみを救うことができなくても、ぼくが救われることがなくても、夢を見せていると思えば、それでいいじゃないか。  ハイドは今夜、ふしぎとそう思って、鍋の中に細かく刻んだチョコレートを入れた。いい匂い、とウィルクスが言っている。  ぼくがきみのこと食べるから、体の中で一つになって、いっしょに生きていこう。パートナーの横顔を見て、ハイドはそう思った。 「……人間の本心てたいてい気持ち悪いものだけど、やっぱり気持ち悪いことに価値があるんだろうね」 「なんのことですか?」 「食べたいほどきみが可愛い、っていう話」  ウィルクスは怒った顔で赤くなり、「幸せな人ですね」と言った。  そうだよ、とハイドは答えた。 「ぼくは飢えた狼なんだ」  確かにハイドの彫りの深い顔立ちは狼のようだ。尻尾を振りながらパートナーを抱き寄せてつむじにキスすると、ウィルクスはかすかに笑った。  できあがったホット・チョコレートはビターな甘さで、ウィルクスの好物の一つになった。

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