16 / 49

探偵と刑事と距離・一

「邪念が伝わってる気がするんですよ」  しょんぼりしてそうつぶやいた弟に、哲学科教授フレデリック・N・ハイドは片眉を上げた。大柄で逞しい男がしょんぼりしている姿はかなりの哀れを誘うものがある、と思う。だから彼は六つ下の弟、シドニー・C・ハイドに向かって気遣うように尋ねた。 「邪念とは? スピリチュアルな話かね?」 「ちがいます」シドニーは重苦しく首を振る。「エドのことなんです」  フレデリックはもう片方の眉も上げた。弟には一年つきあった末、夏に結婚したパートナーがいる。名前はエドワード・ウィルクス。シドニーの十三歳下。まじめで一途、いつも凛々しくて礼儀正しい青年だ。フレデリックは弟から、「男とつきあっている」という話を聞いたときはたしかに驚いた。シドニーは女としかつきあったことがないようだったし、父の血を引いてか、女性に対するアプローチは積極的なほうで、することはするタイプだった。正直なところ、フレデリックは驚いたし少し不快な気分になった。  しかし、彼はさすが哲学科の教授だった。「同性愛には嫌悪を感じるが、理性的に考えるとそういう性愛の形もあると言わざるをえない」という結論を出したのだ。そして実際に知りあってみると――エドワード・ウィルクスはひじょうに「いい子」で、フレデリックはとても気に入った。なにより弟が恋人を大事に愛していることが伝わってきて、結局「おまえたちにとって幸せな道を選びなさい」というはなむけの言葉を贈ったのだった。  そんな弟が、パートナーのことで悩んでいる。フレデリックはシドニーが住む自宅(兼探偵事務所)の居間でミルクティーを飲みながら、じっくり弟の暗い顔を観察した。 「邪念がウィルクスさんに伝わっているだって? だが、そもそも邪念とはなんだね?」 「ぼくが彼にふしだらなことをしたい、という欲望です」  シドニーはさらりと言って、膝に肘をつき大きな手の中に顔をうずめた。 「警戒されて避けられるんです、最近」 「……そんなによからぬことを考えているのかね?」 「先月に比べて十五パーセントアップした、なんてことはないですよ。先月と同じくらい考えてます」 「……ほう。だが、ウィルクスさんの反応は先月と同じではない、と?」 「そうなんですよ!」  シドニーは顔を上げ、兄の顔を訴えるように見つめた。弟のその薄青い瞳は、キリストに癒してもらうことを切望する盲人のようだ。……などと考えるのは大げさで不敬だろうか。フレデリックは首を振り、ため息をついた。 「ウィルクスさんだって人間だし、もっといえば生き物だよ。気分が乗らないときもあるし、そういうことを考えたくない、あるいは考えられない時期もあるだろう。彼をセックス・マシーンかなにかだと思っているのかね?」 「そんなこと、思ってません」  しおらしく言って背中をわずかに丸めた弟は、ぷるぷる震える仔犬に見える。兄は妙に感心した。シドニーは自由な狼タイプだと思ってきたが、こういう一面もあるのかと。 「たしかにあなたの言うように、エドはそういうことを考えたくないときなのかもしれない。ただ、そのきっかけがあって……」  そう言って、シドニーはおもむろにテーブルの上を手探りした。からみあう蔦が浮彫になった細工のシガレット・ボックスに手を伸ばし、「吸ってもいいですか?」と尋ねる。フレデリックがうなずくと、弟はほっとした顔で煙草を一本とり、テーブルに転がっていたライターで火をつけた。煙を嗅いで、フレデリックはつぶやく。 「銘柄を変えたのかね?」 「いえ、この煙草は全部エドのなんです。彼のほうがよく吸ってて、ぼくはときどきもらうんです。お互いにもう禁煙しようって言ってたんですが。……それがきっかけなんです」  フレデリックの頭の上に、「?」マークが次々と浮かんだ。まず結論を述べるのが肝心だと知っているはずなのに、どうやらシドニーは少し混乱しているようだ。煙を吐きながら、彼は兄に打ち明けた。 「禁煙したいけどニコチンに依存してるし、口寂しいからなかなかうまくいかない、ってエドが言ってたんです。だから、『口寂しいならキスしてあげよう』って言ったんです。ふざけていたというか……彼が笑って呆れてくれたらいいなって。でもエドは本気でした。『じゃあ、やってみましょう』と言うんです。それでじっくりキスしたら……まあ、わかりますよね。盛りあがってしまったんです」  フレデリックはうなずきながら、内心会話の生々しさに眉をひそめていた。なんだかウィルクスに対して、申し訳ないという気分にもなる。しかし、弟はさらに爆弾を放つ。 「すごく盛りあがってしまって、鎮火できなかったんです。それでいつもより、その……激しくしてしまったら、エドが泣きだしたんです。いつもの泣き方と違うし、思えばちょっと過呼吸ぎみだった。でも最中は気がつかなくて。あとで、『気持ちよすぎて五回くらい、狂いました』って言ってました。そのときのことと、味わった感覚が激しすぎて、トラウマになったみたいで……以来、全然誘いに乗ってくれないし、警戒されてるんです」 「……ほう」  フレデリックはそれしか言えなかった。冷めたミルクティーをちびちび飲んで、影を背負っているシドニーを見る。全面的におまえのせいだよ、と言いたくなったが、兄は言わなかった。代わりにこう言った。 「落ち着くまで様子を見るしかないだろう。ウィルクスさんのショックがおさまるまで待つべきだよ。それともなにかね、おまえはウィルクスさんより自分の欲望を優先するつもりなのか? なら、鬼畜というものだぞ」 「……もちろん、エドの気持ちが落ち着くまで待ちます。それが最優先だ。ぼく以外の誰も、エドをいじめたらだめだと思う。でも、ぼくだってほんとはいじめちゃいけないんです。大事にしたい。でも……不安になることもある。もう二度とできないんじゃないかとか」 「そんなことはないだろうと思うがね。しかし、安請け合いはできないが。やっぱり待つべきだよ、シド。『待て』は得意じゃなかったのか?」  兄の落ち着いた言葉に、シドニーは少し明るさを取り戻したらしい。得意ですよ、とにこやかに言った。 「エドに躾けられましたからね。たしかに兄さんの言う通りだ。……腰を据えて、彼を待ちます」  それがいいよ、と言ったとき、居間の扉が開いた。顔を覗かせたのは話題の主、ウィルクスだった。グレーのパーカーを羽織り、スキニーパンツを履いているが、足元は素足にスリッパだ。美貌の顔は今は少しむくんでいた。 「おはようございます」  夕方六時過ぎ、自室のベッドで仮眠から覚めたウィルクスは、若干ふらついていた。 「顔色が悪いよ、エド。もう少し眠っていたら? 食事はまだ先だから」  シドニーが声をかけると、ウィルクスは首を横に振った。 「もう、起きないと。四時間も寝てしまったし。顔、洗ってきます」  そう言って背中を向け出ていったパートナーを、シドニーはぼんやり眺めていた。 「とにかく」弟のほうに顔を向けて、フレデリックは言った。「焦らないことだ。今のウィルクスさんを見たら、おまえだって襲えないだろう。疲れ果ててるじゃないか」 「仕事が忙しいって言ってましたからね。……ほんとはどろどろに甘やかして、意識がなくなるまで愛してあげたいけど」 「腹上死させたいのか?」  兄の冷たい目に、シドニーは激しくかぶりをふった。 「思ってるだけですよ。ほんとにはしません。ただ、こういう思いが伝わるんですよね。邪念ですが」  フレデリックはため息をついた。  弟がどれだけパートナーを愛しているのかわかってうれしくは思ったが、ちょっと無邪気すぎる、と思う。それに、フレデリックは心配だった。拒めるうちはいいと思う。献身的なウィルクスがシドニーを思いやりすぎて、むりをしないか。そんな予感がする。  さらに、フレデリックにはもう一つ懸念があった。自分のスーツケースを思いだし、それを置いた寝室のことを考える。オックスフォードから休暇を利用して弟たちの様子を見に来たフレデリック、彼が泊まることになったのはウィルクスの寝室だった。この家には寝室が二つしかなく、一つはシドニーがずっと使っている。結婚して引っ越してきたウィルクスは、もう一つの客用寝室で寝起きすることになった。シドニーの寝室にダブルベッドが置けないためだ。  そして今夜、ウィルクスはどこで眠るか? シドニーの、「二人寝るにはやや手狭なシングルベッド」の中だ。  大丈夫かな、とフレデリックは心ひそかに思った。

ともだちにシェアしよう!