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探偵と刑事と伴侶・一

 だいぶ下がったとシドニー・C・ハイドは思ったが、パートナーのエドワード・ウィルクスは難しい顔だった。  十三歳下で結婚相手である青年は、ベッドのそばの椅子に腰を下ろしたまま、体温計を手に曇った表情になっている。 「八度六分ですか、まだだいぶありますね」  そう言って夫のこめかみを撫でた。ハイドは胸元まで毛布にうずもれ、額に冷却ジェルシートを貼り、熱にうるんだ薄目を開けて、ぼんやりウィルクスの顔を見上げていた。胸が苦しく目がかすんで、鼻をぐすぐす言わせる。  ウィルクスは体温計をナイトテーブルの上に乗せると、ランプの明かりを少し絞って、ハイドが胸の上で組み合わせた大きな手の甲をそっと撫でた。ハイドは手を伸ばすと、寝返りをうってテーブルの上に置いたティッシュペーパーを一枚引き抜く。くしゅんと鼻をかんでゴミ箱に捨て、「うう……」とうめいた。 「鼻の下、真っ赤ですね。ちゃんと薬飲みました?」  心配そうな顔で尋ねるウィルクスの表情を堪能する余裕が、ハイドにはなかった。毛布の中に埋もれて、力のない声で「飲んだよ」と答える。 「でもぼくは特異体質で、市販の薬は効きにくいから……」 「病院、行けばよかったですね」 「もう治りかけだと思って油断してたな」  かすれた声でつぶやいて、ハイドはベッドの中でウィルクスに背を向ける。ひとしきり咳をしたあと、「自惚れてた」とつぶやいた。 「自分が頑丈だって過信してたよ。本当の頑丈はきみみたいな人のことを言うんだな。きみは全然、風邪引かないね」 「そうですね。あなたは意外に、ですね?」 「でも、きみももうぼくから離れたほうがいいよ」ハイドは顔を背けて咳をする。「ウィルス拡散マシーンになってるから」 「平気ですよ。おれが健康を維持してるあいだに、あなたが野垂れ死んだら嫌だから」  そう言って、ウィルクスはパートナーの髪を撫でる。半ば白髪が混じる黒髪は、艶を失ってぱさぱさしていた。ハイドはまた顔を背けて咳をする。彫りの深い顔立ちが生気を失っていた。  それなのに、ウィルクスの目に、風邪で伏せったハイドはとても蠱惑的に見える。熱で上気した頬やうるんだ薄青い瞳、かすれた声や低く重い喘ぎ。手が火のように熱くなっていることも。  ベッドの中でぐったりして、汗をにじませ胸を上下させているハイドは、なにか得体の知れない淫靡なフェロモンを垂れ流していた。その姿を見ているだけで、ウィルクスは下腹部に疼きを感じる。  しかし彼は我に返ると、首を振って自分を叱責した。この人は苦しんでいるのに。なにを欲情してるんだ。  ハイドの手をぎゅっと握って、力づけるように優しく言った。 「おれに遠慮しないでください。あなたが元気になるまで看てます。夜の九時だから……」ウィルクスは腕時計を見た。「病院は開いてないけど、おれが夏に飲んだ抗生物質を探してみます。たしか残りがあったはずですから」  ハイドは目を開けて、「ごめんね、ありがとう」と言った。目じりから涙がぽろっと落ちる。ウィルクスはパートナーの頭を撫でて、「いいんですよ」と微笑んだ。  そのとき着信があり、スマートフォンが振動した。ハイドが枕元に手を伸ばすが、彼の携帯ではなかった。ウィルクスがパンツの尻ポケットに入れていたスマートフォンをとって、電話に出た。 「はい、ウィルクスです。……ストライカーか。どうしたんだ?」  同僚の刑事からの電話に、ウィルクスの表情が鋭くなる。うなずき、わかったよと答えて、彼は言った。 「今すぐ出掛ける。ああ、じゃあ、ヤードで」  通話を切ると、ウィルクスの整った相貌が凛々しく引き締まっていた。ハイドの顔を覗きこみ、「呼び出しがあったので行ってきます」とはきはきした口調で伝える。 「あなたのこと、看病できなくて申し訳ないけれど。レトルトだけど、リゾットがあるから食べてくださいね。林檎は切って冷蔵庫に入れてます。栄養と水分をちゃんと摂って、あったかくして寝ててください。抗生物質はあるとしたら、洗面所の棚の中です」  ハイドの手を握って、ウィルクスは手の甲にキスした。 「悪化したらドクターに電話してください。むりはしないで。いいですね?」 「うん、大丈夫だよ、エド」ハイドはそう言ってウィルクスの指先にキスした。ハイドの唇は熱く、ウィルクスは目を伏せる。 「気をつけて行ってくるんだよ」  苦しいなかで、いつものように穏やかで優しく見送ってもらって、ウィルクスは力強くうなずいた。  彼はスーツに着替えるため、ハイドの寝室を出た。ベッドの中で、ハイドは目を閉じる。風邪が治ったら、二人で食事に行きたいな。浅い眠りに落ちる前、発熱した体を丸めてハイドは思った。一緒にステーキを食べて、ワインを飲んで、ロンドンの夜をのんびり散歩しながら帰るんだ。  早くそんな時間が来ないかな、とハイドは思った。彼は自分が風邪で野垂れ死ななければ、なんの問題もないと思っていたのである。  しかし、そうではなかった。 ◯  夜中の二時過ぎにハイドのスマートフォンに電話が掛かってきた。  ハイドは初め、眠りから覚め切らず、着信のバイブレーションを夢の続きだと思いこんでいた。取るのが間に合わず、着信から留守電に切り替わったが、ふたたび三分後に電話が鳴った。ハイドは重い体を持て余すように寝返りをうち、今度はなんとかスマートフォンを手に取った。発信元はスコットランド・ヤードの刑事部からだった。  低いうなりをもらしつつ電話に出ると、聞き慣れた刑事の声がする。 「ミスター・ハイドか? 刑事部のストライカーだが」  ハイドは目を擦り、うめきをもらした。 「ストライカーさん? どうしたんですか? ……二時ですよ」  聞きとりづらい声に、電話の向こうは少し沈黙する。ストライカーはいつものしわがれ声で言った。 「あんた、具合が悪いのか?」 「ええ、ちょっと、風邪で。どうしましたか?」 「ウィルクスが行方不明になった」  スマートフォンを握るハイドの手が震えた。彼はスマートフォンを耳元に押し当て、ベッドの中で体を起こす。 「え?」  つぶやいたあと、改めて聞いたストライカーの声は妙にがさがさしていた。 「ウィルクスが行方不明になった。今夜、彼をヤードに呼びだしたのは知ってるか? ウィルクスは『ベンスン事件』の容疑者の一人に話を聞きに行った。だが、今はウィルクスと連絡がとれなくなってる。携帯にも掛けたんだが」 「ベンスン事件……たしか、一連の誘拐事件の通称でしたね?」 「ああ。三件の子ども誘拐事件の犯人がベンスンと名乗っていることからついた名前だ。五歳から十一歳の子どもは全員親の元に帰ってきた。だが、この夏四件目が発生してな。十七歳の女学生は未だに帰ってきていない。親は諦めてるのか、関心がないのか……。娘は不良少女だと言ってな」  スマートフォンを耳に押し当てたまま、ハイドはベッドの中に座り、体を揺すった。 「エドは誰のところへ話を聞きに行ったんですか?」 「アーチャー・フリードマン。銀行員。痩せてはいるが長身で、物静かで愛想のいい男だ。おれたち警察がやつの住居を見に行ったんだが、その夜、帰宅した形跡がない。フリードマンは警察へ掛けた電話で、九時以降には帰宅しているから話を聞きたいなら来たらいいと言っていた。やつも行方不明だ。じつは尾行をつけてたんだが、巻かれてる」  ストライカーは煙草を靴の裏でもみ消し、しわがれた咳をした。 「フリードマンは国外逃亡する疑いが掛けられていた。もしかしたら、あんたには言いにくいが……ウィルクスは始末されたかもしれない。おれたちのミスだ」 「平気ですよ、ストライカーさん」  ハイドの声は落ち着いていた。なにが平気なんだとストライカーは思ったが、尋ねられなかった。ハイドのかすれた声が含む妙な静けさに、刑事は得体の知れぬ胸のざわつきを覚えた。一瞬、この男は結婚相手が殺されてもたいして悲しくはないのだと、本気で思った。  ハイドは言った。 「進展があれば教えてください。ぼくは家にいます。ウィルクスが戻ってくるかもしれないから」  それがいい、とストライカーが言った。実は、彼はハイドに「家にいるように」と説得するために電話を掛けてきた。落ち着くように、ウィルクスが戻ってくるかもしれないからと。しかしそんな必要はなかった。  ハイドは電話を切った。  彼は額に貼ったジェルシートを剥がして捨て、ベッドの上に座り直した。全身汗だくだったが、背筋には激しい悪寒が走った。頭がくらくらして、全身から力が抜ける。それでも、彼はベッドに座っていた。  ふいに電話が鳴った。  見知らぬ番号からの着信だった。ハイドが電話に出ると、静かで耳障りな、明らかに機械で音声を変えている男の声が聞こえてきて、こう言った。 「ミスター・ハイド、だね?」  探偵はスマートフォンを握り、「ええ」と答えた。 「あ・な・た・の・大事・な・人・を・あ・ず・か・り・ま・し・た」  電話の声は妙にざらついて、一語一語はっきり言った。 「ハーレイ街××番地で待っている。か・な・ら・ず・お・い・で」  電話は切れた。ハイドがもう一度電話を掛けてみるが、繋がらない。  彼は引きずるように体を起こして、ベッドから降りた。 ○  午前三時十分前に、ハイドは告げられた番地の家の前に車を停めた。元は病院だったらしい建物で、オフィスが入った建物と建物のあいだに挟まれている。従って、両隣の建物は現在は暗く、指定された煉瓦積みの建物だけに明かりが灯っていた。玄関も照らされている。ガラス戸にかつてここで開業していた医師の名前が金色のペンキで記されており、今はそれが雑に擦り取られていた。  ハイドがドアノブを回すと、かすかな音を立ててドアが開いた。玄関に入るとすぐに上階へ続く階段がある。彼は階段を静かにのぼった。すると、短い廊下に出る。三つある扉のうち、いちばん左端の扉はかすかに開いており、中から黄色い光が漏れ出ていた。ハイドは咳をし、熱で重い頭を振った。目を擦る。 「ミスター・ハイドだ」  探偵は奥の部屋に向かってそう言うと、廊下を進んだ。部屋から漏れる黄色い光が目に痛く、ハイドは何度も目を擦る。中途半端に開いた扉のドアノブをつかんで手前に引くと、一瞬、光が目に突き刺さった。光の中で、黒い影がかすかに身じろぎした。  白いマスクをかぶり、ぶかぶかの黒い服を着た人物が壁を背に、扉のほうを向いて椅子に掛けていた。指先が余っている、白い手袋に包まれた手に拳銃を握っている。指は引き金に掛けられ、銃口がハイドの胸を狙っていた。 「ミスター・ハイド、座り・なさい」  マスクの人物の声は電話と同じ、機械で加工した、どこか膨張したような低い声だった。ハイドは手の甲で咳をする口元を押さえ、マスクの奥の目を見ようとしたが、影が降りて見えなかった。 「あなたは?」  ハイドが立ったまま尋ねると、マスクの人物は簡単に「ベンスン」とだけ言った。 「座りなさい」  淡々とした声だったが、どこか笑っているようにも聞こえる。残酷な、たちの悪い冗談をしているふざけた子どもみたいな声だった。ハイドはベンスンの目の前の椅子に腰を下ろした。二人が腰を下ろしているのは部屋の隅で、低いテーブルを挟み対になった四つの四角い椅子は、ひどくちゃちなものだった。  大柄なハイドが座ると、椅子はとても小さく見える。彼は焦げ茶色のコートの中で胸を上下させながら、目の前の人物を見つめた。

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