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探偵と刑事と伴侶・二

 顔全体をすっぽり覆う白いマスクは、まるでハロウィーンの仮装用のものに見える。鼻が高く、目と口元が三日月型に笑っている不気味なものだった。頭には黒いフードを被り、体も全身黒いコートで覆っている。手袋とマスクが黄色い照明で白く光っていた。服が大きすぎるのか、体は半ばコートに埋もれている。小さな四角い椅子に、体がぶよぶよとはみ出している感じだ。  ベンスンは拳銃を向けたまま、慎重な手つきでコートのポケットに手を入れると、スマートフォンを取りだした。画面を表にしてテーブルの上に置く。ハイドが見ると、そこには彼のパートナーの姿が写っていた。  ウィルクスは後ろ手に手足を縛られた状態で床に転がされていた。地下室なのか、床はコンクリートで、布の覆いがかかった鳥かごらしきものや、古びた自転車、雑多なものが暗い画面の隅に写っている。彼は目を閉じて、口に猿轡を噛まされ、芋虫のようにぐったりしていた。茶色い短髪を汚して、額に血の痕がついていた。 「死・ん・で・は・い・な・い・よ」  ベンスンは一語一語区切るように言った。スマートフォンを再びポケットに戻すと、銃口を向けたままハイドに顔を向ける。笑う目の奥で、瞳が動く気配がした。 「彼がいなくなったら」ハイドはマスクの目を見て言った。「ぼくは生きていけないんだ」  その一本調子の声のなにかが、ベンスンに作用した。銃口を向けたまま、喘ぐように肩を上下させる。ためらうように、引き金に掛けた指がかすかに動く。ベンスンは淡々と言った。 「わ・か・っ・て・る・の・か? き・み・の、出方次第・で、ウィルクス・は、死ぬんだ」  わかっているよ、とハイドは答えた。薄青い瞳は微動だにせず、食い入るようにマスクを見つめている。 「もし彼が死んだら、ミスター・ベンスン、ぼくは生きていけない」 「本当に?」  ベンスンの声に初めて少し動揺が混じった。ハイドはそれを感じたが、彼自身の態度に変化はなかった。むしろ、病的に上気した頬や胡乱な濁った目、何度も繰り返す咳や上下する胸が、ハイドがかろうじてこの場所にいることを伝えていた。ベンスンはマスクの向こうから、死体のように生白い探偵の顔を見ていた。  ハイドは咳を抑えて言った。 「あなただって、この人がいなくなれば自分はどうなってしまうかわからない、という人がいるんじゃないのか?」 「ああ」ベンスンはつぶやいた。「そう・だよ。だが……」  マスクの人物は黄色い光が照り返すなか、真っ白な顔を向けたまま、コートの下で黒い革靴を見えない角度で交差させた。 「だが、ミスター・ハイド、あなたは・ほんとうに、そうなったら、悲しい・のか?」  ハイドは猛烈に込みあげてくる咳をなんとか抑えようとしていたので、ベンスンの話を聞いていないかに見えた。探偵は何度も咳をし、空えずきして、目に溜まった涙をぬぐった。 「悲しいよ」ハイドは言った。「そう見えないかな?」  ベンスンはためらった。それでも、銃口はハイドの胸元に突きつけたままだ。マスクの人物は急にまた元の調子に戻った。 「ウィルクス・は・大人しく・している。あなたが変な気を・起こさ・なければ、無事だ」 「わかっているよ、ベンスン。だが彼にもしものことがあったら……」 「わたしを殺す・か?」 「いや」ハイドはつぶやいた。「もしそうなったら、なにもかもがどうでもいい。彼はもう帰ってこないんだし。……もう一度写真を見せてくれないか? いや、渡してくれなくてもいいんだ、あなたが持っているままでいい」  ベンスンはもう一度慎重にスマートフォンを取りだし、手を添えたままそれをハイドに見せた。ハイドは食い入るように見つめた。ウィルクスは目を閉じて、苦しさのため眉間に皺を寄せていた。頭が少しおかしなほうに傾いている。 「彼はぼくの結婚相手なんだ」ハイドが画面を見つめたまま言った。「大事な人なんだ」そこで急に顔を上げる。「わかってくれますね?」  ベンスンはかすかにうなずいた。 「彼は、この家の地下にいるのか?」  ハイドはそう言ってあたりを見回した。部屋には二人が座っている椅子とテーブル以外、なにもなかった。ただ部屋の隅に、色あせたカバーを掛けたアップライトピアノが置いてある。ハイドはベンスンのほうを振り向いた。探偵は死人のような顔色で、目も虚ろだった。 「彼は・地下に・いる」  低い声でベンスンが答える。 「死んでは・いない・よ」 「わかっているよ。彼がもし死んだら……」  ハイドは椅子の中で身じろぎした。ベンスンが銃口を突きつける。ハイドは血走った、熱で朦朧とした目で三日月形の目の奥を見た。 「もし、彼が死んだら、とても悲しい」 「本当・に?」  ベンスンが低く息を吐くように言った。 「ふつう・人は・悲しむものだ。でもあなたは……そんなふうに・見えない」 「今ここで泣きわめいたら、ぼくの気持ちをわかってもらえるのか?」 「それ・でも・わからない・ね。あなたはそもそも……誰かの生死に左右されない人、なんじゃないかな?」  ハイドはかすかに笑った。 「どうだろうね」  そうつぶやいて、彼はマスクの奥の目を見た。視線が合ったように感じた。 「ベンスン、あなたは誰よりも今このときのぼくの気持ちがわかっている。そうではありませんか?」  ベンスンは笑い顔のまま、ほんのかすかにうなずいたかのように見えた。  そのとき、一階から銃声がした。  ハイドは椅子から立ちあがると、素早くコートのポケットから拳銃を抜きだした。銃口をベンスンに突きつけると、仮面の人物は椅子にのけぞり、ハイドに向かって銃口を突きつけたまま身じろぎした。ハイドは覆いかぶさるようにして言った。 「銃声が聞こえただろう? 刑事たちがウィルクスを見つけた。拳銃から手を離すんだ。あなたはこれまで誰も殺してこなかった。今さら罪をつくる必要はない」  二人は視線を交わした。ハイドの声は落ち着いているが、喉からは絶え間なくぜいぜい言う喘ぎが漏れている。顔は赤く、汗が滴り落ちた。  ハイドの手がベンスンの握る拳銃に触れた。銃身をゆっくり包みこみ、握ると、ベンスンは自然に手を離した。ハイドは拳銃を掴んで、それを自分の隣の椅子の上に置いた。それからベンスンに覆いかぶさるように体をかがめると、白いマスクに触れ顔から剥がした。  青みがかった、乳白色の女の顔が下から現れた。若く、幼く、その灰色の瞳がハイドを見据えた。金色の、波打つ髪がひとふさコートの上に垂れた。ハイドは言った。 「あなたがフリードマンでないことはわかっていた。彼は長身の男だ。だがあなたは手袋の指先が余っていた」 「わたしはフリードマンよ」  顎を上向け、ハイドを見つめたままで、少女は言った。 「結婚したの。この秋に十八歳になったから」 「そうでしたか」ハイドはそう言って、女に向かって手を差し伸べた。 「あなたは夏に起こった誘拐事件で行方不明になった、ミス・サリー・ガードナーではありませんか?」 「ええ。そうです」  少女はハイドの手を握り、椅子から立ち上がった。長い髪がコートの胸元に、流れ落ちるように垂れた。彼女はハイドを見上げて言った。 「夫は逃げました。たぶん、逃げられたのだと思います」 「あなたはウィルクスを捕まえて監禁することで、警察とわたしの目を自分に引きつけようとした。そうですね」  少女はうなずいた。階段をのぼる足音が聞こえる。 「夫にもしものことがあったら、耐えられないんです」と彼女は言った。 「ミスター・ハイド、わたし、思うんです。誰にだって救世主が必要なの。夫は悪しき人です。そしてときには、キリストでも救えない人間を救えるひとはいる。わたしにとって、夫はそんなひとなんです」  よくわかりますよ、とハイドは言った。  拳銃を構えた警官たちが、空気が流れこむように部屋の戸口に現れた。彼らはサリー・ガードナーを取り巻き、さながらダンスパーティーでエスコートするかのように、彼女を連れて行った。  サリーが部屋から出て刑事たちと階段を降りていくと、その場に残ったストライカーはハイドのほうを振り向いた。  探偵は青ざめた顔をして、床に膝をついていた。 ◯  ハイドが目覚めたとき、彼は病室の白い部屋の中にいた。ベッドの中で目を覚ますと天井がぐるぐる回って気分が悪くなった。目を閉じて唇を結び、じっとしている。とても清々しい気分で、体が軽かった。ベッドの中で伸びをすると、手の甲に痛みが走る。点滴の管が伸びていた。 「外れてしまいますよ」  病室に入ってきた看護師が柔らかくそう言って、針を抜いた。彼女はハイドに体温計を渡した。熱を測っているあいだ、枕元のカルテにペンを走らせる。すぐに音が鳴ったので、ハイドは体温計を見た。六度七分。看護師に見せると、彼女は微笑んだ。 「よかったわ。お見舞いの方が来てるんです」  看護師はいったん病室の外に出て、すぐに戻ってきた。スーツを着て、通勤用のメッセンジャー・バッグを背負ったウィルクスが部屋に入ってきた。  彼はいつものように凛々しい顔つきで、焦げ茶色の瞳も鋭かった。しかし、ハイドと目が合うと一瞬だけ泣きそうに顔を歪めた。  むりをしないようにと念押しして、看護師は病室を出て行った。あとには二人だけが残された。窓の向こうに冷え切って澄んだ空気が満ちて、ガラスのように輝く日差しが射しこんでいた。ウィルクスはそっとハイドのそばに歩み寄った。 「具合はもういいんですか?」  おそるおそるというふうに尋ねてくるウィルクスに、ハイドは笑顔を向ける。 「もう大丈夫だよ。熱は下がったみたいだ」 「肺炎にならなくてよかったですね」  そう言ってハイドのそばに立つウィルクスの後頭部には、ガーゼが貼られていた。 「きみは無事だったか?」ハイドがベッドの中で体を起こしながら尋ねる。「酷いことをされなかったか?」 「おれは大丈夫です」  ウィルクスはにこにこしている。 「フリードマンとミス・ガードナーの芝居に騙されてしまいました。『この女を助けたければ、手を挙げて壁に向かって立て』と言われて、言う通りにしたら頭を殴られたんです」  ハイドはうなずいて、ウィルクスの手を握った。あたりをきょろきょろ見回して、「個室だな」と言った。ウィルクスもつられて見回す。 「ええ。目が覚めたら、あなたに事情聴取することになっているから」 「なんだ、ぼくらが思う存分いちゃいちゃできるように便宜をはかってくれたのかと思った」 「あなたは相変わらずですね」  そう言ったウィルクスは照れくささのために怒った顔になっていたが、ふいに優しく微笑んだ。  しばらく二人とも喋らなかった。あたたかい部屋に、消毒薬の匂いが漂っていた。ウィルクスが言った。 「あなたは彼女をとっても怖がらせていましたよ」 「彼女?」 「ミス・ガードナー、いや、ミセス・フリードマン。『あの人はとても平気そうに見えた』って。それから、ストライカーも同じようなことを言ってました。ほんとは、おれがいなくなっても、たいして悲しまないんじゃないかって」  ハイドはベッドの中でウィルクスを見上げた。探偵は言った。 「たぶん、だれが聞いてもそう思ったと思う」  ウィルクスはハイドの目を見つめて、指の背で頬に触れた。皮膚に伸びかけた無精ひげを感じ、死体のように白い肌に触れた。熱が抜け落ち、汗の跡が残ったハイドの顔はどこか頼りなげで無垢に見えた。 「おれは、わかってますよ」ウィルクスは頬を撫でながら言った。 「あなたがきっと悲しんでくれるって」  うん、とハイドは言った。ほんとうのところ、もしそんなことがあれば、彼は自分がどうなるのかわからなかった。ただ必ず、自分の胸に巣食う巨大な空虚の穴の中に吸いこまれていく。そこで人生が終わり、心は死に絶える。その予感がハイドの体を揺るがした。  体を震わせた彼を見て、ウィルクスはハイドが寒いのだと思った。どうしていいのかわからなくて、肩に手を置き、もう片手を背中に回して抱きよせる。逞しい筋肉と骨格、そして体温を感じて、ウィルクスの心は安らいだ。  ハイドは腕の中で震えていたが、やがて静かになった。長い幸福が彼を満たした。  二人はしばらく寄り添うようにそばにいた。 「フリードマンはどうなったんだ?」  ハイドが尋ねると、ウィルクスはうなずいた。 「戻ってきましたよ。やっぱり、妻を置いてはいけないって」 「そうか。フリードマンにとっては、ミス・ガードナーが『必要な人』なんだろうね」 「そうですね。世間はそのことを悪く言ったり、良く言ったりするんだろうけど」  ハイドはウィルクスの手を握ると、急に思い出したように真剣な表情で言った。 「ぼくが倒れていたあいだ、ちゃんと食事してたか? 独身時代みたいにパスタの缶詰と林檎で済ませてたら、きみもいつか倒れるよ」 「大丈夫ですよ。おれは頑丈ですから。そうそう、昼飯持ってきたんです。ツナのサンドイッチ。あなたは病院の食事が出るだろうけど、いっしょに食べようと思って。食べたら仕事に戻ります。それで、夜にまた会いにきますよ」 「そろそろ退院したいな」 「むりしちゃだめですよ」 「大丈夫だよ。それに……」  ウィルクスの目を見つめるハイドの瞳は青く澄んでいた。 「それに、個室といえどもきみを愛するには限界がある」  二人は見つめあった。ハイドがパートナーの腰にそっと手を添えると、ウィルクスはもたれかかるようにかがんだ。  彼らは黙ってキスをした。開け放たれたカーテンのむこうは、磨かれたガラスの日差しに満ちている。

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