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探偵と刑事とエムの心・一

「おれ……ドМかもしれません……」  突然助手席に座るパートナーが真顔で告白して、シドニー・C・ハイドは一瞬、ブレーキを踏むのが遅くなった。車は信号待ちで急停止して、車間距離を詰め過ぎてしまったなとぼんやり思った。  助手席では、ハイドの十三歳離れた年下の結婚相手、エドワード・ウィルクスが通勤用のメッセンジャーバッグを膝に抱えてうつむいている。刑事として勤務している、スコットランド・ヤードからの帰り道。彼はふいにパートナーのほうを振り向いた。凛々しい美貌をがちがちの真顔で固めている。加えて怯えた顔で、「そう思いませんか?」と尋ねてきた。  ハイドは目を合わせると、「ん?」と尋ね返した。それから正面を見て、ブレーキから足を離しゆっくりアクセルを踏みこむ。前を向いたまま、「そうかな?」と言った。  ウィルクスも前を向くが、顔が曇っている。暗い顔でため息をついて、「絶対そうですよ」とつぶやいた。 「どうしよう……たしかにおれはバイだけど、それ以外は特筆すべきこともない、ノーマルな性癖だと思ってたのに……」  それからふたたびハイドのほうを振り向き、確固とした口調で謝った。 「すみません。お、おれ……変態で。ごめんなさい」 「いや、そんなことないよ」  ハイドは反射的にそう言って、ハンドルを切る。通行人に道を譲りながら、隣を向いてウィルクスの膝の上にそっと片手を置いた。 「気にしすぎだよ、エド。きみは品行方正だ」 「でも、ドMだって思いませんか?」 「だって、ドMっていうのはマゾヒストのさらに上、真性のマゾってことだよ。仮にちょっとマゾっけがあったとしても、きみはそこまでじゃないと思うけどな」 「……そうですか?」  ウィルクスは少しだけほっとした顔をした。ハイドは自宅兼探偵事務所のガレージに車を停めて、エンジンを切る。隣を向いて、穏やかな薄青いで尋ねた。 「どうして突然そんなことを言いだしたんだ?」  ウィルクスは目を伏せて、ちょっと赤くなった。 「その……前から気にはなってたんです。おれ、スパンキングされるのが好きだし、ちょっと痛いほうが感じるし、あ、あなたに意地悪されると……こ、興奮してしまうから。でも」彼は顔を上げて、はにかむように微笑んだ。「まあ、マゾっていうほどじゃないんですかね?」  ハイドも微笑んでうなずき、「そっちの扉、きみのバイクと近いから当たらないように気をつけてね」と言った。  ウィルクスは車から降りて、安心した顔になる。夫が優しく否定してくれたので、肩の荷が降りた気がした。彼は後部座席の扉を開けて、シートに置いた、ケーキ屋で買ってきたプリンの入った箱を慎重に手にとった。  彼は知らなかった。「ドMかもしれない」という告白が、パートナーの男に火をつけたのを。ハイドがいつもどおり穏やかで優しかったので、ウィルクスは考えもしなかった。 「きみがドM? たしかに素質がある。なんて可愛いんだ。それならぼくが磨いてあげるよ」――ハイドはこう考えたのだ。 ○  しかし、ふわふわのオムレツとペスカトーレを食べて、デザートのプリンとコーヒーが終わるまでは、ハイドは胸に抱いた劣情を微塵も匂わせなかった。食べ終わったウィルクスが腰を上げて、食器をトレイに載せはじめる。キッチンに持っていこうとした皿洗い当番の彼に、ハイドは「あとでいいよ」と声をかけた。  ウィルクスはトレイをテーブルの上に置いて、じっとハイドを見つめる。結婚して、ウィルクスはこのパターンに慣れていた。食事が終わって、「洗うのはあとでいいよ」とハイドが言うのは、ベッドに行こうというお誘いの合図。ウィルクスは恥ずかしさと照れのあまり仏頂面になって、しかし目は輝かせてパートナーを見た。  ハイドは椅子から立ちあがって、ウィルクスに後ろから抱きつく。大きな熱い手が腹に回り、ぎゅっと抱きしめられて、ウィルクスはかすかに赤くなった。体温と耳元をくすぐる息遣いにぷるっと震える。夫の匂いが漂って、頭が朦朧としかけた。  その状態で、ハイドは突然言った。 「きみ、ドMだよね」  ウィルクスはぽかんとしたあと、真っ赤になった。怒った顔でハイドを跳ねのけようとするが、がっちり腕を回して抱きしめられているので離れられない。もごもご動いたあげく、ウィルクスは「違います!」と押し殺した声で抵抗した。 「ど、ドMじゃありません……っ」 「いや、きみは十分立派なMだよ」  ハイドがきつく抱きしめたまま言い返す。それから耳を食んだ。ウィルクスの体がぴくっと反る。 「ち、ちがう……そんなことないって、言ってたじゃないですか!」 「あれはきみがまだ、心の準備ができていないと思ったから。でも、本当のことを言うよ。きみはドMだ」 「ううっ」ウィルクスは抱きしめられたまま悲痛にうめいた。「ち、違います……ちがう、シドのドSっ」 「ドSなぼくにいじめられてうれしいんだろう? ……もう反応してるよ」  ハイドの手が前に回り、ウィルクスは絶望しかけた。大きな手が股間に触れるとそこから電流が脳天にまで走る。彼は腰をくねらせた。やばいやばいやばい、と胸の中で叫んで、ウィルクスはなんとか逃れようとする。しかしハイドの手が執拗に、スウェットパンツの上からその場所を撫でている。 「ほら、もうこんなに硬い」  しれっと言う夫に、ウィルクスの凛々しい眉が吊りあがった。 「あ、あなたが触るからです! おれ、こんなの……ち、ちがいます。Mじゃない。もっと……」  ウィルクスの目にじわじわと涙があふれた。 「もっと、まともなはずなんです。そうじゃなきゃ、自分のこと……き、嫌いになってしまう……」  泣きそうなウィルクスの声に、ハイドは手を止めた。体を離し、今度は正面からそっと抱きしめる。ウィルクスはハイドの肩口に顔を埋めた。年上の男は静かに優しくささやいた。 「ぼくがきみのこと嫌いにならないのに、きみは自分のこと、許せなくなってしまうのか?」 「だって……」ウィルクスは低い声でつぶやく。「恥ずかしいし、嫌です。自分でわかってるんです。お、おれは、変態だって」 「でも、人間多少はみんな変態だよ。ぼくだってそうだと思うし」 「あなたはオープンな明るい変態で、おれは陰々滅々としたスキモノの変態なんです。明るい助平よりむっつり助平のほうが助平じゃないですか!」 「いや、助平は助平だと思うけど」  さらっというハイドの肩に額を押しつけ、ウィルクスは「ううっ」とうめいた。 「きみはドMだよ、エド」ハイドが断言した。 「どこらへんがそうかって言うと、前、きみはフェラが好きなんだなってぼくが言ったら、こう答えたね。『おれの中の空白が、大好きなあなたで埋もれていくのがたまらなく好きなんです』」 「べ、べつにフツーじゃないですか!」  顔を上げて抗議するウィルクスに、ハイドはきっぱり言った。 「いや、その発想も、そう言ったときのきみも非常にエロかったし、『じゃあ大きければ大きいほどいいんだな』って訊いたら、真っ赤なトロ顔で「はい……」って答えたからエロい以外のなにものでもない。十分変態だ。よかったね、エド」 「嫌です違います変態じゃない……いや、でも……世間的にはおれみたいなやつは変態なのか? わ、わからなくなってきました。ただ、言えるのは……あ、あなたが意地悪だってことです!」  ウィルクスが顔を上げてパートナーを睨むと、ハイドはにこっと笑った。腕を回した腰を力をこめて抱き寄せると、ウィルクスは真っ赤になって目を逸らす。 「意地悪されて硬くなってる」  ハイドがささやくと、ウィルクスは涙を浮かべた目を伏せた。エドは睫毛が長いんだよな。ハイドはぼんやり思う。頭を撫でると、年下のパートナーはぷるっと震えた。焦げ茶色の目のふちにうっすらと涙が溜まっている。 「きみはぼくといると、ちょっとだけ泣き虫だね」  背中を撫でながらハイドが言うと、ウィルクスは自らの腰をハイドの腰に押しつけた。 「あなたがおれを泣かせるんですよ」  それから瞳を上げて、緩んだ顔で微笑んだ。 「い、行きましょうか」  ああ、行こうねとハイドは言った。彼はウィルクスを抱きしめて、痩せた長身の体を抱きあげた。

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