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探偵と刑事とおやすみ・一

 三月のサザーランド・ホテルは静かである。  このホテルの元となったブライトンのマナーハウスが買い取られたのは六十五年前。サー・ジョージ・サザーランドは財政難で泣く泣くこの屋敷を売り払った。買い取ったのは現在ホテルのオーナーであるアーサー・ブラックウッド氏の父親アルバートで、ホテル業は順調に発展し今に至っている。  屋敷はパラディオ様式の壮麗な建築で、ドームを後ろに配する広い玄関には、白い対の柱がローマの神殿のごとく静謐にそびえていた。中に入るとドーム部分は吹き抜けになっており、蝋燭を灯せる巨大なシャンデリアが客を迎える。客室数は二十、床暖房を含め空調設備を完備し、すべての部屋にリビングと寝室、満足なバスルームが付随する。切りたった崖と丘の上に建ち、ビーチはすぐそばだ。いずれの部屋も五つ星クラスだが、特に選ばれた客だけが泊まれる客室からは、海が一望できる。  したがって、三月はオフシーズンなのだ。 ○  エドワード・ウィルクスは浅い眠りから目覚めた。しばらくのあいだ、ぶ厚いマットレスとぐしゃぐしゃになったシーツの上に長身の体を沈めたままでじっとしている。耳に聞こえるのはかすかなエアコンの音だけ。上も下も裸だが、暖房が効いているので寒いとは感じなかった。  全身がだるかった。ぐったりとベッドの上に伸びるが、頭ではしゃんとしないといけないと思っている。そこで、あくびをしながら目を擦った。そんな些細な動作でも、腕がだるいと感じる。このままふたたび眠りたい……動物のようにそう思った。彼の背後では、ベッドよりもさらに広い面積のフランス窓がカーテンも開け放たれ、‪午後三時‬過ぎの晴れた空と、穏やかに輝く海を映しだしていた。海岸には誰もいない。電灯はつけていないが、広く瀟洒な寝室が射しこむ日差しで柔らかな明るさに包まれている。床には陽だまりができていた。そこから少し離れた穏やかな影の中で、ウィルクスは丸くなっている。  急に横から腕が伸びてきて、彼の頭を撫でた。  大きく厚みのある左手は、茶色の短髪をくしゃくしゃと撫でる。薬指にはまった指輪が気怠い午後の日差しにきらっと輝いた。ウィルクスは頭を撫でられ、その心地よさにうっとりしていた。体があたたかい光の中に溶けていく。そんな感覚に、体はもっとだらけたいと素直に訴える。それでもウィルクスはせっかく閉じた目を開けて、隣に横たわる男を見上げた。  ウィルクスの結婚相手で、十三歳年上のシドニー・C・ハイドの顔が間近にある。いつものように穏やかな顔つきだが、ウィルクスよりも目は覚めている。年下の男のぼんやりした顔を見て、ハイドは微笑んだ。 「起きたか?」  優しい顔でささやくパートナーに、ウィルクスはこっくりうなずく。それでも、「起きている」とは言い難い現状だった。努力して覚醒しようと頑張るウィルクスを見て、ハイドは見透かすようにささやく。 「寝てていいよ。まだ‪三時‬だ」  ウィルクスは、もう‪三時‬……という顔をする。時刻を聞いて、ますます起きなければと思った。それなのに、泥にはまったように動けない。ハイドは相変わらず頭を撫でている。心地よさに、ウィルクスはぼうっとなった。ハイドが目ヤニのついたウィルクスの顔をぬぐってやる。彼もまた自分で目を擦り、頬をつねった。ベッドに埋もれたまま、「おれ……」とつぶやく。 「髭も剃ってない……」  ウィルクスの声はかすれて低かった。 「大丈夫だよ、今日は休みなんだから」  そう言ったハイドの声も寝起きのため、いつも以上に低い。それがまたウィルクスの眠気を誘う。彼は強く自分の頬をつねった。少し頭がはっきりする。しかし、起きようと思うが体がついていかない。結局、そのままの体勢でハイドを見上げ、訴えた。 「休みでも、もう‪三時‬なら、起きなきゃ」  義務感でいっぱいになるウィルクスに比べて、ハイドはゆったりしていた。王侯貴族のようにベッドの中に寝そべって、片手でウィルクスの頭を撫で、片手で掛布を引っぱりあげる。彼も裸で、逞しい上半身は胸の下まであらわになっていた。 「リゾート地では、‪午後三時‬は遅い昼食かお茶の時間だよ。……なにか食べるか?」  そう尋ねられて、ウィルクスは急に空腹を意識した。それに合わせるように、腹が小さく鳴る。頑張って目を開けてハイドを見つめると、年上の男は薄青い目を優しく細めた。ウィルクスの頭をぽんぽんとたたく。食事する? と尋ねられて、ウィルクスはこくりとうなずき、つぶやいた。 「……レストラン行くなら、起きないと」 「疲れてるなら、むりに起きなくていいよ。ぼくがレストランに食事を頼んでくる。部屋に持ってきてもらえばいい」 「でも、裸で食べるなんて」 「ぼくのガウンを貸すよ。それを着て食べたらいい。大丈夫、ここにはぼくしかいないから」  そう言って、ハイドはふいに心配そうな顔になった。寝そべったままウィルクスの頬骨を指の背で撫でて、「むりさせたかな」とささやいた。  ウィルクスはすぐに強く否定する。”大丈夫、でも、なんだかずっとしてるみたいな気がして”。  ハイドは微笑む。上体を起こすと鍛えられた体があらわになった。厚い胸と筋肉がはっきりわかる引き締まった腹。縦に長い臍の横のほくろ。ウィルクスはその体をぼんやり見上げた。へらっと笑ってつぶやく。 「ずっとしてるのに、やっぱりあなたの体を見るとエロい気分になる」  光栄だよと言って、ハイドはパートナーの上に覆いかぶさった。こめかみにキスすると、ウィルクスは人形のようにごろっと仰向けになる。ハイドは黙って唇に軽いキスをした。「疲れてるね、”babe”」と呼ばれて、ウィルクスの顔はさらに緩む。ふだんの凛々しい美貌が溶けた飴のようにぐずぐずになっていた。ハイドはだらしないその表情を堪能して、ゆっくりベッドから片脚を出す。スプリングが軋み、彼は裸のまま絨毯を敷いた床に降りた。 「ぼくは一度シャワーして、髭も剃って、着替えるよ。それならルームサービスを持ってきてくれるメイドも顔を赤くしないだろう」  そう言って、ハイドは鼻歌まじりにソファに引っ掛けていたガウンを羽織った。床に落ちていた枕を拾い、ウィルクスの頭のそばに置いてやる。寝室の白い扉が閉まる音を聞いたときも、ウィルクスはベッドの中でぼんやりしていた。シーツに顔を埋め、思う。  シドはどうしていつもあんなに元気なんだろう。もう三日目なのに……。  ウィルクスはのろのろと手を伸ばして掛布をつかむと、肩の上まで羽布団をかぶった。素肌に触れるリネンの感触が心地よく、うっとりと目を閉じる。エアコンの音も意識しなくなり、ふたたび浅い眠りに落ちていった。 ○  ウィルクスがパートナーとブライトンのこのホテルを訪ねたのは、三日前の昼のことだった。滞在は去年の九月以来で、ブラックウッドは二人をとても歓迎した。彼は私立探偵をしているハイドの元依頼人で、今でも熱烈な恩義を感じている。それもあって、オフシーズンの今、最上級のお部屋をおとりできますと確約した。九月にハイドとウィルクスが訪れたときよりもさらにいい部屋があるという。恩人とその結婚相手をもてなせて、ブラックウッドは幸せそうだった。  そもそも二人がサザーランド・ホテルを訪れたのは、ハイドの提案による。ウィルクスが根を詰めて働きすぎだというのだ。  でも、おれはスコットランドヤードの刑事だし、そんなものですよ。そうウィルクスは言ったが、ハイドは頑として「働きすぎだ」と言った。別に出世の野心もないんだろう? と言われて、ないでもないウィルクスは困ったが、それでもやっぱりこんなものだと言う。そこで、ハイドはサザーランド・ホテルでの休暇を提案した。あのホテル、今はオフシーズンだし、行ってだらだら昼寝でもすればいい。

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